部分と全体

ガレリア座の次回公演、「モンマルトルのすみれ」の合宿が、この週末にありました。全ての歌詞と台本が仕上がり、全キャストが決まって、一部の演出も付き始めました。いよいよ、という感じです。私からすると、キャストが変更になったこともあり、音にせよセリフにせよ、かなり短期間に一気に詰め込んだ感じ。きちんと自分の中で落としこめていなくて、色んな所がダマになっているホットケーキミックスみたいな感じ。これをあと3ヶ月でなんとかクリアにしていかないと。

この作品、なんだか少女漫画によくあるような、学園恋愛ドラマみたいな味わいがあります。奔放だが女性的な魅力にあふれたバラの花のような女性と、まだ開ききっていないスミレのような可憐な女性の間で揺れ動く男性。よくあるじゃないですか、学園恋愛漫画で、可愛げはあるんだけどなんともドジな下級生の女の子が、かっこいい上級生の男性に憧れて・・・なんていうストーリ。でもその上級生には、女性らしくてすごく美人の元彼女がいたりして、ドジな下級生は失恋の痛手に耐え切れず・・・。うーん、ありがちだなぁ。「エースをねらえ!」のお蝶夫人岡ひろみみたいなさ。あれはスポ根ものか。でもまぁ、あれも、宗方コーチをめぐる女の戦いとみなせたりもするかもしれんし。話がそれまくり。

合宿の後の打ち上げで、キャスト連中や演出家と話していたのだけど、こういうドラマの場合、観客の大多数が、どちらか一方の女性の味方についてしまう、という状況を避けないといけない。お蝶夫人岡ひろみをいじめるかもしれないけど、どこかで下級生を見守る温かさみたいなのもあったはず。岡ひろみはドジな女の子かもしれないけど、守ってあげたい可憐さだけじゃなくて、強さとともに女性としての美しさも身に着けていくような側面もあったはず。そういう岡ひろみに感情移入する人も多いだろうけど、お蝶夫人の気高さに惹かれた人だって多いよなぁ。あの金髪長髪でテニスやるのは無理があると思うぞ。何の話だ。えっと、モンマルトルだ。なんかやっぱり「エースをねらえ!」じゃ無理があるなぁ。「ガラスの仮面」の北島マヤ姫川亜弓。おお、いいじゃん。最近のフィギュアの浅田真央ちゃんと村主章枝さん。ちょっと生々しくて怖いな。この二人が岡ひろみお蝶夫人ってことだと、荒川静香は緑川蘭子か。だから一体何の話をしているんだ。

そうだ、オペレッタの話だ。モンマルトルのすみれだ。この作品に限らず、オペレッタにはありがちなことなんですが、大きな歌を持っている主役級の登場人物は、歌が大変なものだから、セリフをある程度少なくする、という配慮がほどこされることがあります。その分、周囲の脇役にたくさんのセリフが与えられて、ドラマを動かしていくことになる。そうすると、主役だけじゃなくて、脇役の一人ひとりのキャラクターがきちんと立っていないと、ドラマ自体のダイナミクスが失われてしまう。オペレッタには、非常に魅力的な脇役たちがたくさん登場しますが、構造的にそういう構造を持っているんですね。三谷幸喜ドラマのような、脇役一人ひとりが魅力的なドラマ。それがオペレッタの魅力でもあります。

じゃあ、キャラクターを立たせる、というのって何なのさ、とか、観客をどうやって味方につけるのさ、といえば、それって結局、きちんと登場人物のキャラクターを自分の中に落とし込み、一つ一つのセリフに向かい合う細かい作業の積み重ねだったりする。セリフを言っている相手は誰か。その人と自分の関係は。そういう分析の中で、「これしかない」というセリフの言い回しを発見していく、そういう地道な作業。細かい間の取り方、イントネーションのつけ方、強調の仕方、セリフを言うときの顔の表情、声の高低・大小。そういう細かい言い回しを一つ一つのセリフについて検討していく。これがまた、結構面倒なんだ。

面倒な要因ってのは、そういう細かい作業をし始めるときりがなくなってくる上に、こまかなセリフのニュアンスにこだわるあまりに、今度は自分のキャラクターが逆にあいまいになってきてしまうジレンマに陥ってしまいがちだから。たまにこの日記にも書いてますけど、目的と手段、部分と全体が逆転してしまうんだよね。

でも逆に、一つ一つのセリフの言い回しを考えていく細かい作業の過程で、「ここでこういうセリフを言うということは、この人物って、こういうキャラクターだったのかも」と、新しい発見をすることもあります。部分から全体が発見される、逆のアプローチ。

細かい部分にこだわることで、全体のキャラクターが見えてくる。全体のキャラクターが自分の中で納得されることによって部分の処理方法が見えてくる。そういういい相乗効果が出てくるといいんだけど、往々にして、細かい部分にこだわってしまうあまりに全体が逆にぼやけてしまう。あるいは逆に、全体のキャラクターを間違えてとらえたり、とてもステレオタイプ的に、硬直的にしか把握できなかったりすることで、部分の処理方法がとんちんかんになったりする。そういうマイナスのスパイラルに陥りがち。常に全体を見渡しながら部分もおろそかにしない。そうやって重ねていく練習の過程というのは、苦しいけれども楽しい、とても大事な時間だったりします。岡、エースをねらえ。違う話だっての。