中国で倫理的に行動すること

先月末、中国に行ってきたのですが、今回は、いわゆる「旅行」としての感想よりも、「中国」という国の持つ構造的な問題…というか、特質について、考えさせられることが多い旅になりました。ちょっとビジネスっぽい話になります。

今回の出張は、我々の中国側のビジネスパートナーの体制変更に伴い、今までのビジネス関係を再確認しよう、という目的。その体制変更というのが、社内の権力闘争だ、ということにまず驚く。さらに、その権力闘争の結果、前体制に所属すると目されていた組織が、根こそぎ「放逐」されてしまっていることにさらに唖然とする。

「放逐」された前組織の構成員が、後任者に申し送りなどの引継ぎ作業を行っているはずもなく、全てまた一から確認しなおしです。もちろん、会社としてのお付き合いは継続していく、ということで意思統一はされているので、後任者も一生懸命学ぼうとしているのですが、なんと徹底的な「入れ替え」であることか。

もちろん、日本でも、私企業においてそういう「お家騒動」のような経営陣の総入れ替えが起こることはありますよね。でも、曲りなりにも中国の企業というのは全て国営です。さらに、日本の企業であれば、企業の先行きを考えて、前任者がきちんと後任者に引継ぎをしたり、あるいは完全な「放逐」ではなく、敗者復活の可能性を残した窓際への追放だったりする。そこに、組織としての継続性を維持する仕組みがある気がするんですが、中国では完全に、「入れ替え」です。

そこで、ふと、中国という国の歴史を考えてみる。いわゆる文化大革命にしてもそうだったわけですけど、基本にある「革命」という思想は、要するに前政権、前為政者の「根絶」です。織田信長抵抗勢力を、女子供に至るまで根絶やしにしたのと同様の思想。中央権力にある者は、つねに権力闘争に明け暮れており、その権力闘争の結果、敗退したものは、その思想からスタッフに至るまで全て完全に「放逐」され、葬りさられる。

こういう「革命」によって、為政者が完全に刷新されることを常とする政府のもとで律せられている国民は、ある意味の諦念のようなものを身に着けているように思います。つまりは、「今の上の人が変わってしまえば、次の上の人はまた全然違うことを言うんだよね」という諦め。その諦念は結果として、「次の人が全然違うことを言う前に、今のうちに楽しめるだけ楽しめればいい」という、非常に刹那的な、短期的な利益を追求する姿勢を生む。

中国という国を理解するには、こういう「今のうちに稼げるだけ稼げればいい」という、刹那的な生き方が基本にあることを理解しておいた方がいい気がします。北京育ちの中国人が、「上海人は3日先のことしか考えられない」と言っていたのを聞いたことがありますが、そういって上海人の刹那主義を笑う北京の人だって、十二分に刹那的です。今目の前のサラリーが安いから、といって、自分のスキルアップだのキャリアパスだのといった長期ビジョンはぶっ飛ばして、どんどん転職していく人が後を絶たない。

刹那主義は、結果として、遵法精神の欠如にもつながっている。法律なんか守っていたって、明日には別の為政者が、全く別の法律を出してくるかもしれないんですから、とりあえず今、守っている姿勢を見せるだけでいいんです。当然のことながら、次世代のことを考えた環境に対する配慮、なんてことは考える価値もない。重金属を川に流して、下流の人や海を挟んだ隣国がどれだけ迷惑しようが、とにかく今稼げればいいんだから。

中国を中心とするアジアからの留学生を受け入れた欧州のビジネススクールで、中国人留学生たちが、学校側に抗議した、という話を読んだことがあります。「『企業倫理』というコースを、必修コースから外してほしい」という訴えだったそうです。欧州に留学に来るほどに知的水準も収入水準も高い、中国の中でもほんの一握りのスーパーエリートたちが、「中国で倫理的に行動しても損するだけ」と訴えたんだって。実際、明日の為政者が全然違う規律を設定して、今までの倫理も法律も全てぶっ飛んでしまうとするなら、現在の倫理を守って真面目にやればやるほどバカを見ますよね。日本みたいに、「真面目にこつこつと修行して、中年を過ぎてから大成した」なんて人は尊敬されなくて、「株で1日で一攫千金、大金持ちになりました」なんていう「濡れ手に粟」の成功者がうらやましがられ、尊敬されるのが中国なんです。

中国の方が全員、こんな刹那的で、遵法精神皆無の中で目先の利益だけを追っている人たちだ、とは言いません。でも、「仕方ないんだよね、経営陣が変わっちゃったからさ」と、諦め顔でこちらの説明を一生懸命聞いている後任者の顔を見ながら、この国とビジネスを継続していくことの難しさについて、改めて感じさせられた出張でした。