伝えたい気持ちがどれだけ真剣か

先日、埼玉スーパーアリーナ(SSA)で開催された、BABYMETALの、METAL GALAXY WORLD TOUR IN JAPANの二日目に参戦。BABYMETALの現場からはYUI-METALの卒業と共に卒業したつもりだったんですが、鞘師里保岡崎百々子藤平華乃という、BABYMETALの伝説を作り上げたピースの中から選ばれたAvengersの参入と、最新アルバムMETAL GALAXYの余りのエモさに完全にノックアウトされてしまって、たまらず現場復帰してしまいました。そりゃあ無茶苦茶ぶち上がったんですけど、今日はあまりそのステージの感想を書くつもりはなくて、自分の身近にあるオペラ舞台表現とかも含めて、ちょっと雑感を書きたいと思っています。

BABYMETALは、アイドルとメタルの融合という新しいコンセプトのもと、あんなのメタルじゃない等の様々なバッシングを受けながら、過去の常識への挑戦を続けている自分たちの闘いを、「METAL RESISTANCE」として物語化してきました。周囲の無理解との闘いやくじけそうな自分、共に闘う仲間との絆、という物語を熱く歌う、というのが前作までのコンセプトで、それはそれである意味、彼ら自身のリアル世界での挑戦や成果とシンクロして、非常にエモーショナルな物語世界を作り上げていた。

でも、新作のMETAL GALAXYでは、はっきり明示されているわけではないものの、志半ばにして、新しい道、別の夢へ舵を切ったかつての仲間への応援歌に聞こえる曲が沢山あって、それがこのアルバムのエモさを増幅している。「Brand New Day」「Distortion」「Shine」「Arkadia」あたりの曲がどうしてもそう聞こえてしまうファンは私だけじゃない。それらの曲は間違いなく、グループを卒業したYUI-METALへの応援歌であったり、「星を見に行く」と言って事故死した早逝の天才ギタリスト、小神こと藤岡幹大さんへの追悼歌として聞こえてしまう。Arkadiaの一部の英語歌詞が、「YUI-CHAN BE AMBITIOUS!」と聞こえる、というツイートが流れるなど、過去のBABYMETALを知る人には、BABYMETALを続けていくんだという二人の強い決意と、新しい道を歩み出したYUI-METALに対して、その挑戦を見守る優しさを見て涙してしまう人がたくさんいる。

多分、表現しているSU-METALやMOA-METALも、そういう物語を意識せざるを得ないと思うんだね。そして逆に、伝えたいメッセージが抽象的概念的なのではなくて、「かつての仲間」という具体的な「伝えたい相手」を得たことによって、間違いなく彼らの表現自体が説得力や凄みを増している感覚がある。METAL GALAXYというアルバムの持っている圧倒的な説得力が、SU-METALやMOA-METALのYUI-METALへの強い思いに支えられている、というのは多分間違ってないと思うんです。

自分も舞台をやるので何となく分かるんだけど、舞台上で表現する時に、きちんと客席のお客様一人一人に何かを伝えよう、と思って表現するのと、自分の中だけで表現が閉じてしまう時とでは、説得力が全然変わってくるんですよね。伝えるメッセージによって、相手の心に何かを与えよう、何かしら、相手の気持ちや行動に変化を与えたいと思いながら伝える表現は、やっぱりパワーが違うし、その相手が具体的な「誰か」である場合の説得力は全然違う。客席に何も届けるものがなく、ただ楽譜をなぞって、楽譜通りに歌えるスゴイ私を見てちょうだい、という自己顕示欲で完結している歌い手なんかいっぱいいるし、そういう表現は確実に客席を冷めさせるんです。

そしてそのメッセージの力は物語を別のステージへと高めていく。METAL GALAXYというアルバムに込められた、ある意味「極私的」「個人的」な思いに支えられた変革や前進へのメッセージが、突然普遍的な意味を持った瞬間。それが、BABYMETALが香港の野外音楽フェス、Clockenflapに参加する、というニュースだったんです。このニュースが公表された時、既に香港は大規模な抗議活動の只中にあって、その中でフェスへの参加を決めたBABYMETALには結構驚きの声も上がった。でも、抗議活動が激化し、学生達の行動がどんどん命がけのそれへと変化していくにつれて、BABYMETALの歌のメッセージが香港の人たちに与える影響を危惧する声がどんどん増えていった。だってねぇ、BABYMETALの代表曲なんて、タイトルが「Road of Resistance」ですよ。最新アルバムの終曲「Arkadia」の以下のような歌詞が、今の香港の空に響いたら、本当に何が起こるか予想もつかない。

 

光より速く 鋼より強く
使命の道に怖れなく
どれほどの闇が覆い尽くそうと
信じたこの道を歩こう

For your dream, for your faith, for your life
動き始めた時代の歌は夢に響き合う
今 no more tears, no more pain, no more cry
あの誓いの大地へ 遥か遠くへ
輝き放つアルカディア

 

この歌が今の香港で歌われたなら、極私的なメッセージはいきなり普遍的なメッセージになる。そして多分BABYMETALの二人は、今の香港だからこそ、自分たちが行ってこの歌を歌わねば、と思ったかもしれないって想像するんです。あの子たちは、音楽の持つ力、自分たちの歌の持つ力を信じているから。例えそれがどれだけ危険なことであっても。アンチファンが、ステージを無茶苦茶にしてやるとツイッターに投稿していたソニスフィアの舞台に立ったあの二人だから。

Clockenflapはあまりの抗議活動の激しさに結局フェス自体が開催中止となり、BABYMETALの二人やAvengersが危険な目に会うことが避けられて、ファンの一人としては本当に胸をなでおろしたのだけど、でも、二人の思いや、何より二人の歌を心待ちにしていた香港のファンのことを思うと、なんともやるせない気持ちもある。SSAでのパフォーマンスが最高に盛り上がったのには、香港の人たちに届けようというメンバーの思いもあったのかも、とも思ったりします。

音楽含めて、芸術表現には、人の心を変える、動かす力がある。そういう表現は時に、命がけの真剣勝負になる。BABYMETALの歌には、聞く人、見る人に思いを届けよう、というそういう真剣さがみなぎっていて、同じ舞台表現に少しだけ関わっている者として、なんだか背筋が伸びるような思いがするんです。全然違う話だけど、愛知トリエンナーレの騒動がものすごく浅薄に見えてしまうのは、企画者の側に、自分の命が危険にさらされようと、この表現によってこの世界を変えねばならない、という真剣さではなくて、単なる売名目的の覚悟の無さが透けて見えるからなんだよね。表現者として立つからには、人に伝えるのだ、人を変えるのだ、人を動かすのだ、その結果を全て、自分の身体で受け止めるのだ、という覚悟を持たねば。

シャンソン・フランセーズ8~バランス感覚なんだなぁ~

昨日、渋谷の伝承ホールで開催された、東京室内歌劇場コンサート、シャンソン・フランセーズ8、「イストワール」を見てきました。今日はその感想を。とにかくバランスがものすごくよくて、過去のシャンソン・フランセーズの中でも出色の舞台だったのでは、と思います。

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第八回目の今回は、「イストワール」(歴史)というタイトルのもとで、パリの歴史をたどりつつ、そのパリが経てきた時間を象徴するノートルダム寺院の火災からの復興を祈る第一部と、最近鬼籍に入ったフランスシャンソン界の巨匠たちを偲ぶ第二部、という構成。どちらもテーマ的には、ちょっと重たい感じ。冒頭、シンセサイザーで重厚に演奏されたフォーレのレクイエムから始まって、田辺いづみさんが歌われた「ミゼリコルド」が、重苦しい鐘の音と共に、歴史に翻弄される人生の悲惨とつかの間の光を歌い始めた時から、今回はこういう空気感で行くのかなぁ、とちょっと身構える。

でも、テーマが重くても、耳になじみのある曲を入れたり、シャンソン・フランセーズ定番のコミックソングで客席を爆笑させたり、という変化に富んだプログラムで、客席までどんよりと沈んでいく感覚がしない。「ミゼリコルド」が重厚で宗教的な曲調の中に突然小唄風の軽い調べが現れるように、ユダヤの迫害が重く歌われたあとに、リベルタンゴが自由を歌い、辻馬車がフランス流の諧謔を歌ったりする。このプログラムの自在な感じ、バランス感覚が本当に素晴らしい。特に、フランシス・レイミシェル・ルグランなどの耳になじみのある有名曲と、プロデューサーの田中知子さんが傾倒している昭和歌謡の名曲やコミックソングで構成された第二部は、次に何が出てくるんだろう、という高揚感で、最後まで本当にワクワクしっぱなしでした。そういう楽しみ方がしたくて、今回あえて、パンフレットに書かれたプログラムを見ずに舞台を見ていたのもよかったのかもしれませんが。

第一部のラストの三橋千鶴さんの「愛の讃歌」と、第二部のラストの和田ひできさんの「愛の閃く時」、そしてフィナーレの「生きる時代」が、テーマに沿ったメッセージ性の強い歌で、客席で涙するお客様がすごく多かったのだけど、でも多分、テーマに沿った曲だけを並べて、これでもか、と歌い連ねても、お客様の心に届いてこないんだよね。押すばっかりじゃなくて、ちょっとすっと引いたところから、急にバズン、と直球を投げ込まれると、笑いで無防備になった心の真ん中に、どすん、と響いてくる、そんな感じ。ちょっと昔の中島みゆきさんのオールナイトニッポンの、散々笑わせた後で、番組の最後に、ずしん、と重たいメッセージをぶつけてくる感じを思い出したりして。

過去のシャンソン・フランセーズからずっと続いている気がするんですけど、すごく真面目に言いたいことがあるんだけど、ちょっと照れ臭くって笑いにごまかしてしまう、みたいな、なんとも人間臭い感じがこのシリーズにはあって、そこがもの凄く好きなんですよね。今回のプログラムで、そういうちょっと「すかした感じ」みたいな感覚が、個人的にクリーンヒットしたのが「甘いささやき」。オリジナルは、女性歌手が一人で歌う曲に、アランドロンがたまらなく甘いセリフをささやき続ける、という曲なのだけど、今回の舞台では、この女性歌手のパートを二人の女性で歌い分ける、という構成になっていて、愛の誓いの言葉をつぶやく男の甘いセリフが、さっきまでこの人に言ってたのと同じセリフを別の人に言う、という形になって、一気にうさん臭くなっちゃって大笑い。元の歌詞も、「むなしい言葉ばっかり並べるんじゃないわよ」という歌なので、そのメッセージが笑いと共に強調された感じ。

メッセージをしっかり客席に届ける上で、笑いってのが大事、としても、なかなか本当に笑えるようにパフォーマンスを「やり切る」のって大変なんだけど、その点でも今回の歌い手たちは素晴らしかったです。コミックソングからぱっと華やかなヒットソング、昭和歌謡からがっつり本気のシャンソンまで、バラエティに富んだプログラムを、どの曲も一つも手を抜かずに、見せ方まで含めてがっつり「やり切っている」感じがすごくよかった。オペラ歌手と言われる人たちには、自分に言い訳しながら歌ってるのがはっきり見えて客席が白けてしまう歌い手も結構いるんだけど、今回そういう歌い手は一人もいなくて、どの曲にも全力投球。だから、余計にプログラムのバランスの良さやメッセージがしっかりこっちに伝わってくる。

あとは、アンサンブルのバランスがとてもよかったです。こういう演奏会だと、歌い手の皆さんが忙しい中で練習時間を調整して本番を迎えるので、全員でのアンサンブルがかなり悲惨な出来になることが結構あるのだけど、今回は全員合唱のアンサンブルのハーモニーががっつり決まっていてそこも素晴らしかった。

前回この日記で、舞台表現に対して愚直に真摯に取り組むことの大切さ、みたいなことを書きましたけど、今回の舞台では、自分がやりたいこと、伝えたいことをお客様に伝えるために、どこかで自分のやっていることを客観的に分析する冷静さと、何よりバランス感覚が大事なんだなぁ、というのをすごく感じました。

二番目に言いたいことしか言えないから、歌を歌ったり絵を描いたりするんだ、という星野富弘さんの詩がありましたけど、実は逆で、一番目に言いたいことをはっきりそのまま言っちゃったら、意外と人にはちゃんと伝わらないのかもしれない。だから僕らは歌を歌うのかもしれないね。その方が、一番言いたいことがしっかり伝わるのかも。そんなことをちょっと考えたりしました。

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出演者全員集合写真。田中知子さんのFACEBOOKから、ご本人のご了解をいただいて転載。皆様お疲れさまでした。女房がまたまたお世話になりました。時間を忘れて、時間についてしっかり考えることのできた素敵な時間を、ありがとうございました。

ああ夢の街浅草!~舞台表現者として愚直であること~

今日は先日、10月23日に、浅草東洋館で初日を迎えた、東京室内歌劇場ロングラン公演、「浅草オペラ102年記念、歌と活弁士で誘う ああ夢の街 浅草!」の感想を書きます。でも、最初にお断りしておきますが、感想というより、ほぼ100パーセント身内のことしか書きません。身内ってのは、うちの女房なんですがね。ノロケじゃなくって、至極真面目に、舞台に対する態度とか気構えとか、物凄く試行錯誤しながらモノを作っていく覚悟とか、やっぱりこうじゃなきゃホンモノ感って生まれないんだよなぁってのを客席にいてもシミジミ感じちゃったので、そのあたりをつらつらと。まぁノロケと思って読んでいただいてもいいんですけど、私もアマチュアとはいえ、やはり舞台に立つ機会のある人間として、凄く教えられた部分が多かったんです。なので今日は、オペラ歌手、大津佐知子という人のパフォーマンスへの感想を中心に書いていこうと思います。

この企画、2017年に浅草オペラ100周年を記念して企画されたロングラン公演の再演となります。102年前の浅草を熱狂させた浅草オペラの、大衆的でありながら真摯に聴衆のニーズと芸術の高みの融合点を目指した革新性と、そこから生み出された、今聴いても新鮮な名曲の数々を、活弁士のガイドで辿っていく企画。そして、今回の再演の一つの目玉になっているのが、公演のラストに演じられる「浅草オペラ版 椿姫」。これが本家本元の「椿姫」とは似ても似つかぬ、浅草のカオスな空気をダシ汁に、都都逸デカンショ節、ラップ、謎のコントからタンゴ、そして本家「椿姫」の本格的アリアまでぶっ込んでぐたぐたに煮込んだ天才山田武彦先生の問題作。大津はこれのプリマ、花魁小町を演じました。

恐ろしいことに、この「椿姫」のプリマは、都都逸をうなるだけじゃなく、元祖椿姫のアリア、「乾杯の歌」「そはかの人か」も歌い、タンゴを踊り、手紙を読みながら泣き崩れ、コスプレ看護婦さんにお尻に注射された上に、最後には有名なアリア「花から花へ」の最高音(ハイEs・・・五線譜の中の一番上のミの音の2オクターブ上のミのフラット)を決めないといけない。それも公演の前半にはアンサンブルとして歌ったり踊ったりした後に。いくらなんでも盛り過ぎだろ、と思うかもしれないけど、先日、さくら学院の舞台の感想にも書いた通りで、浅草レビューを支えたパフォーマーは、歌も芝居もコントもなんでもできたんですよね。そういう人達が支えた浅草オペラを再現するには、演じる側も何でもできなきゃいけない。

元々大津という歌い手は、学生時代に世阿弥を研究したこともあって、歌舞伎や能などの日本古典芸能には造詣が深いんですが、それでも、知識として知っているのとそれを舞台上で演じるのは全く別の話。山田先生に教えてもらった、古賀政男の三味線を伴奏に美空ひばりが歌う都都逸の動画を聞きこんだり(この古賀政男さんの三味線も、美空ひばりさんの都都逸も絶品!)、毎日のように家の中で、「あたしゃ白身で、君を抱く~」などとずっと鼻歌で歌ってました。でもその都都逸の発声ポジションにこだわってしまうと、オペラのアリアが歌えなくなるリスクもある。共通する共鳴場所をうまく探りながら、都都逸も十二分にそれっぽく、そして、ラストのハイEsも見事に決めていました。

もう一つ、大津のパフォーマンスで感心したのが、舞台の立ち姿。アンサンブルで出てきた時にも、なぜか立ち姿が決まっている感じがあって、何が違うのかな、と思ったら、肩から二の腕の位置関係が他の歌い手さんと違うんです。基本的に肘が肩の位置よりも少し後ろにあって、脇腹にべったりついていなくて適度に間隔をあけている。少し翼を広げた鳥のようなフォーム。なので上体が広く見えて、立ち姿のバランスがいい。

本人に聞けば、「それは舞台上での立ち姿の基本でしょう」と言うのだけど、その基本ができていない歌い手なんかいっぱいいますからね。今回の舞台では、専属のヘアメイクもメイク担当の方もいらっしゃらないし、衣装担当もいないから、全部自前。ショートヘアにつけ毛で大正モダンガールっぽい髪形を作ったり、前半のアールデコアールヌーボーっぽいドレスや花魁小町の和装っぽい衣装まで全部自前で、ああでもないこうでもないと試行錯誤を重ねていました。そのかいもあって、決して身びいきではなく、本家「椿姫」でもない、歌舞伎の花魁でもない、浅草大衆芸能のカオスの生んだ歌姫、としかいいようがないような、怪しい椿姫が見事に表現されていたと思います。

でもね、多分102年前の浅草オペラってのも、まさにそういう「なんでも自分1人でこなしちゃう」プリマたちが競演していたんじゃないかなって思うんです。どうやれば西洋のオペラの興奮が日本人に受け入れられるか、色んな実験の中で化学反応のように生まれてきた浅草オペラが、関東大震災を経て衰退した後も、浅草レビューから戦後のテレビバラエティ番組にまで強烈な影響を与え続けたのは、当時の作り手が、どうやったらお客様が楽しんでくれるか、舞台上で自分を美しく、面白く、そして芸術的に見せられるか、というのを必死に自己プロデュースしていった熱意があったからじゃないのかと。普通の「オペラ歌手」なら尻込みしそうなてんこ盛りの作品に、愚直に真摯に向き合っている大津のパフォーマンスを見ていると、いわゆるオペラ歌手って言われてる人って、なんだか舞台に対して甘えていませんか?って言いたくなったりもする。高尚な芸術を学んで、色んな外国語を操って、色んな場所で「先生」と呼ばれているうちに、舞台上でどう自分を見せるか、お客様をどう楽しませるか、という、パフォーマーとして一番大事なことをおざなりにしちゃいませんかって。

まだ小中学生なのに、厳しい競争の中でプロ意識を持って、一つ一つのパフォーマンスに全身全霊でぶつかっているさくら学院の舞台を見た直後だったので余計に、今回の浅草オペラの舞台では、舞台に対してどれだけ真摯に愚直に向き合っているか、パフォーマーの本気度が如実に見えた気がしました。正直、かなり甘いんじゃないの、と思えるパフォーマンスに対しても、「先生、素敵だったわぁ」と声をかけている年齢の高いおじさんおばさん達も結構多くて、客もよくないのかもなぁ、とも思うけどね。でも、大津の真摯なパフォーマンスは、しっかり客席に届いたみたいで、終演後、全然知らないお客様たちから、沢山お褒めの言葉をいただいたそうです。舞台に立つ表現者である以上、自分の学歴だの、教育者としての副業だのそんなことは一切捨象して、もっと愚直に、真摯に、舞台上の自分の姿を見直した方がいい「オペラ歌手」はいっぱいいます。お客様の方もそこはシビアに見た方がいいと思うんだよね。

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お疲れ様でござりんした~

 

さくら学院祭2019~原石だから再現できる昭和歌謡バラエティの世界~

週末に開催されたさくら学院祭2019、19日(土)の公演舞台と、本日開催されたライブビューイング(20日(日)公演の収録)を見に行って、一応、二日間の公演のほぼ全容を見ることができました。学校だからこそのバラエティに富んだ舞台に、大正の浅草レビューから続く日本の舞台エンターテイメントの系譜や、懐かしの昭和歌謡バラエティ番組のワクワクを垣間見た気がしたので、そういう衒学的な感想を。例によって知ったかぶりの適当な書き飛ばし文ですので、あまり真剣に突っ込まないでくださいね。

さくら学院は「アイドルグループ」と名乗ってますが、実際には「芸能人育成機関」という側面が強い、という話はこの日記でもよく書いていて、生徒さんたちは、歌とダンスだけでなく、女優としての演技の勉強やバラエティの対応力など、芸能人として生きていくための色んなスキルを実戦的に学んでいます。毎年開催される「さくら学院祭」は、その学習成果の発表会という位置づけになるので、結果的に、寸劇やコント、「さくらデミー賞」という演技エチュードを見せるバラエティ的コーナーと、歌とダンスのパフォーマンスが混在する、という盛りだくさんの舞台になる。このおもちゃ箱的な構成を指して、「八時だよ全員集合」や、「ヤングオーオー!」のような昭和の懐かしい歌番組になぞらえる人がいて、すごく言いえて妙だな、と思った。

でも「八時だよ全員集合」の構成には元ネタがあって、もともとテレビの歌番組っていうのは、「シャボン玉ホリデー」や「夢で逢いましょう」の時代から、歌のコーナーとコントのコーナーやちょっとした小芝居のコーナーが混在して進行するものだったんですよね。そしてもっと乱暴なことを言えば、「シャボン玉ホリデー」「夢で逢いましょう」の原型は、大正時代の浅草オペラを源とする浅草レビューにまでさかのぼることができる。浅草レビューはさらに、パリのキャバレーのショウや、歌舞伎や狂言などの、「通し狂言」と「踊り=レビュー」をセットにする興行形式にもさかのぼれる。話がちょっと広がり過ぎてしまったので、ちょっと戻ろう。

「八時だよ全員集合」は、歌の間につなぎとして行われていたコントの部分を主役にして、歌をつなぎとして従属させた所が画期的で、「欽ドン」とか「俺たちひょうきん族」なども、コントを中心とする構成をそのまま引き継いだ「お笑いバラエティ番組」でした。一方で歌番組は、バラエティ要素を失って、ベストテンやミュージックステーションのようなライブだけを並べる歌専門の番組に特化していった。言ってみれば、歌とバラエティ、コントは引き裂かれてしまって、それぞれの専門番組になっていった、というのが流れだったのじゃないかなと。

でも、逆に言えば、その後に登場したニューミュージック系の歌手は、それ以前の歌手が必ずやっていた、「舞台上で演技をする」という必要性から逃れることができたんだよね。荒井由実さんや吉田拓郎さんが役者として演技する、なんてことあり得なかったわけだし。つまり、「歌手」と「役者」あるいは「コメディアン」の分業が明確になってくるわけで、芝居のできない歌手、歌の歌えない役者、というのもそれぞれの場所で活躍できるようになる。「シャボン玉ホリデー」の映像とか見ると、人気歌手と言われた方たちの達者なお芝居に驚くし、昔の歌番組の構成は、歌も歌えて芝居もできてコントもできる、ある意味万能芸能人のスキルに支えられていた。だからこそ、「SMAPSMAP」という番組が画期的だったわけで、あれはSMAPというグループが、歌も芝居もコントもバラエティもできる4人組だったからこそ成り立った、バラエティと歌のバランスのとれた番組だったんじゃないかな、と思います。そういえば初期のスマスマの木村拓哉さんのネタの一つが古畑任三郎だったな。関係あるのかな。あるわけないな。話を戻すぞ。

と、かなり回り道をしましたけど、やっとさくら学院祭に戻ってきますよ。さくら学院祭が、既に失われてしまった昭和の「歌謡バラエティ番組」の構成を再現できるのは、パフォーマーの生徒さんたちが、まだ歌手でもダンサーでも女優でもないダイヤの原石状態だからこそで、彼女たちはある意味何でもできるから。そして大手芸能事務所アミューズが全国のオーディションで選抜してきた小中学生の彼女達は、時に大人顔負けの高レベルの演技や歌やダンスを見せてくれる。昭和50年代から60年代くらいのテレビ番組にはまだ生き残っていた、次に何が出てくるんだろう、的なドキドキ感が、2000年以降に生まれた才能豊かな子供達によって、かなり高いクオリティで再現されるのが何だかすごい。他のアイドルさんの舞台を見たことがないのでなんとも言えないんですけど、芝居とレビューの二部構成のショウを見せている宝塚とか、同じようにお芝居と歌のショウの二部構成になっている一流の演歌歌手の舞台とか、歌もダンスも芝居もコントもできる方たちのライブでしか味わえないようなてんこ盛りのパフォーマンスを、商業ベースで毎年開催しているってのが本当にすごいなぁって思う。

もう一つ、さくら学院祭が昔のテレビ番組のワクワクを思い出させてくれるのが、これがライブだっていうことなんだよね。「八時だよ全員集合」も、生放送だからこそあのワクワク感が生まれていたと思うし。色々偉そうなこと並べた挙句に、結論は結局、さくら学院すげえ、ということだけかよ、と言われそうですけど、やっぱ色んな意味で、このシステムを作り上げ、それを支えているスタッフと生徒さん達って、凄いんじゃないかなぁって思うんですよ。

里見八犬伝~色々繋がって色々見れて~

今日は、中野ZEROで上演された舞台版「里見八犬伝」の感想を。以下、ネタバレ含みますので、未見の方はご注意ください。

例によって、さくら学院を昨年卒業した日髙麻鈴さんが出演する、ということで見に行ったんですが、意外に色んな気づきがあって面白かったです。実は今日は、お昼にこの「里見八犬伝」を見て、その足で神奈川芸術劇場さくら学院学院祭の一日目に行く、という推し事連チャン日だったんですが、学院祭の方はまだ二日目があるので、感想は後日アップしますね。

さて、「里見八犬伝」。さくら学院の卒業生の舞台を全部見に行っている猛者父兄ではないのですけど、日髙さんが「ぬい」を演じると聞いて、これは見に行かねば、と思ってしまったんですね。原作の「ぬい」は、自らの身を犠牲にして犬士の命を救い、産み落とした子が最強の犬士、犬江親兵衛になる、という、母性と慈悲のキャラクター。これを憑依型女優の日髙さんがどう演じるのか、というのがとても興味があったんです。

拝見した舞台は、原作を大きく改変していて、「ぬい」も原作の母性ではなく、兄の小文吾の戦う動機付けとなる可憐さと幼さと悲劇性が前面に出ていて、期待とは違ったのだけど、別の意味で日髙さんの魅力が十分発揮できるいい役だったと思いました。壮絶な殺陣が繰り広げられる殺伐とした舞台の上の、まさに一服の清涼剤。しかもラストに物語全体の救済者として登場する。登場場面は少ないけれど、とても印象的な役。

この舞台版「里見八犬伝」、東日本震災からの復興の祈りも込めて2012年に初演されてから、なんども再演されているそうで、実はうちの娘も見に行ったことがあるそうです。今回も客席はほとんど若い女性で占められていたのだけど、その大きな理由が、八犬士を演じるイケメン男優さんなのだね。ドラマや映画で活躍する若手のイケメン男優さん達が多いのだけど、2.5次元ミュージカルと特撮ヒーローの経験者が多いのもなるほどなぁ、と思う。さて、ここからかなり知ったかぶりの衒学的な文章が続きますよ。浅はかな知識で書き飛ばしてますから、あんまり厳しく突っ込まないでくださいね~。

2.5次元ミュージカルも、特撮ヒーローも、ものすごく肉体を酷使するアクション芝居が求められると思うんです。そして思い出してみれば、かつて特撮アクション番組に人材を供給していたのは、千葉真一の率いるJAC(ジャパン・アクション・クラブ)。そのJACと深いつながりを持っていたのがアクション映画の神様、深作欣二監督で、今回の里見八犬伝の舞台演出は・・・なんとそのご子息の深作健太さん。なんだか全部繋がっているよねぇ。

舞台版「里見八犬伝」も、深作欣二監督の映画版「里見八犬伝」と展開が似ていて、犬士たちの犠牲の上に生き残った薬師丸ひろ子真田広之が悪を倒す、という展開が、犬塚志乃だけが残る舞台版の展開と重なる。映画版ではあまりきちんと描かれていなかったそれぞれの犬士の葛藤が、舞台版ではしっかり描かれていて、深作欣二監督はこういう物語を描きたかったのかもなぁ、と思ったり。

さらに、死者の無念を呼び覚ますことで死者を蘇らせる、というあたりは、まさに同じ深作欣二監督の代表作の一つ「魔界転生」。ラスト、切っても切っても切り足りない、という感じで延々と続く殺陣のシーンは、どこか工藤栄一監督の映画を思わせて、昔の東映チャンバラ映画ってこうだったよなぁ、って思ってしまう。そして現代のチャンバラ役者の第一人者、山口馬木也さんが見事な演技と殺陣を見せるに至って、日本の時代劇がこういう形で若い役者さんたちに引き継がれていくんだなぁ、と、別の感慨も沸いてきました。

今回、私はさくら学院からこの舞台を知ったのですけど、同じように、2.5次元ミュージカルや特撮ヒーロー番組から、この舞台を知った人も多いと思うんですね。色んな入り口から、日本のエンターテイメント界が積み上げてきた、そして継承してきた伝統的な舞台表現に触れる人が増えるって、なんだか素敵なことだなぁって思う。さくら学院というのは、卒業生が様々なエンターテイメントの現場で活躍することで、色んな舞台表現の現場へと父兄さん達を連れて行ってくれる、一種のエントリーシステムとしても機能している。さくら学院が繋いでくれた新しい世界の先に、思ってもいなかった懐かしいチャンバラ映画の世界があって、なんだか嬉しくなってしまいました。日髙さん、素敵な出会いをありがとう。貴女の今後の活躍をずっと応援していきたいなって思います。

 

GAG第13回公演「My Home」~こういうカップリングができるのはGAGだけ!~

先週、9月7日(土)に、渋谷のl'atelierで、GAG(Galleria Actors Guild)の第13回公演を開催。長く続けてきた朗読シリーズ、「南の島のティオ」から、「帰りたくなかった二人」の朗読と、女房が歌うサミュエル・バーバーの歌曲「ノックスヴィル1915年の夏」の二本立て。会場をほぼ満席にしてくださったお客様と、濃密な時間を過ごすことができました。今日はその感想を。

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当日配布したパンフレットの表紙イラスト。

 

GAGは、女房と結婚する前に、二人芝居をやりたいね、と結成した二人きりの劇団で、音楽活動を舞台活動の中心にしている二人が、普通のお芝居や朗読などの別の舞台活動もやってみよう、と始めたユニット。全編の朗読上演を目指して続けている池澤夏樹さんの「南の島のティオ」の朗読シリーズは、今回で8話目になります。でも、今回お届けした、「帰りたくなかった二人」は、どうお客様にお話を伝えるか、かなり悩みました。とても地味な話で、特にドラマティックなことが起こるわけでもない。淡々と島の日常生活が描かれていく中で、人と土地の関係と繋がり、という重いテーマが、静かに語られるお話。実際、全編の中でも印象が薄くて、最初読んだ時には、そんなにお話に魅力を感じたわけじゃなかったんです。でも、2010年から、2年ほどの米国赴任を経て、改めて自分の生まれた土地、住む土地、それぞれの土地と人とのつながりを再認識した時、このお話のテーマが二人の中で、すとんと腹落ちした感覚がありました。

 

舞台に仕上げる前のお稽古は、演出家の女房と、朗読をする私が差し向いで練習します。ほとんど落語のお師匠とお弟子さんのような感じ。これを自宅でやるので家庭内の空気が大変居心地悪いものになるんですが、そこで随分詰めたのは、声の色を作らない、ということでした。朗読者としては、登場人物の台詞ごとに、そのキャラクターを演じようとしてしまうんですが、特に女性の台詞を喋る時、声を作りすぎてしまって、語られている中身が伝わらなくなってしまうんですね。

 

「『色んな声色でキャラクターを演じ分けられるSingさんってすごいですね』って言われるだけで終わっちゃうと、この話が伝えたいテーマが伝わらなくなっちゃうから」と女房にダメ出しされて、もっと平らかに、変な色をつけないように、声の色や語りのテンポ感、音程などを検証して、試して、修正して、を繰り返しました。でもそうやって声の色を変えずに、書かれている言葉に真っ直ぐ相対すると、逆に、一人一人の登場人物の言葉の底にあるキャラクターが見えてくる感覚があった。自分の声の表現力をアピールするのではない、この物語の中に生きている人たちの言いたいことを伝えるのが、朗読者のやるべきこと。

 

本番舞台では、長谷部和也さんのイラストや、女房の選曲したBGMなどの力もあって、面白かった、と言ってくださったお客様や「いい声ですねぇ」とほめてくださった方も多かったんですけど、やっぱり最後まで集中していられないお客様も結構いらっしゃって、自分の力不足も痛感しました。小さな会場なので目の前でお客様に居眠りされるのはかなり辛いものがあります。そんな中で、「お話の持っている哲学的なテーマがすんなり胸に伝わってきました」とおっしゃって下さったお客様の言葉があって、その言葉が本当に嬉しかったです。

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「南の島のティオ」のシリーズにずっと付き合ってくれているイラストレーターの長谷部和也さんの作品。素敵でしょ?

 

第二部、女房の歌った「ノックスヴィル1915年の夏」では、自分は女房の訳詞による字幕スライド制作と開演前の解説MCを担当しました。サミュエル・バーバーという作曲家は、きちんと旋律のあるクラシックの手法で曲を書いた最後の現代作曲家で、この曲も、ピアノの前奏が奏でる主題がしみじみと美しく、その美しい主題が形を様々に変化させながらずっと流れていきます。その中で語られるのは、アメリカ南部の中堅都市で、ある家族が過ごす、黄昏時の何気ない情景。でもその中で、少年の心によぎる人生や人間に対する深い思索が語られる。「帰りたくなかった二人」を上演しよう、という話をした時、「この曲とカップリングで上演したい」と女房が持ってきた曲。

若干手前味噌になりますが、冒頭の曲解説のMCを喋っている時から、女房が書いてくれた解説文の力もあってか、お客様の心をしっかりつかめた感覚がありました。そこに、田中知子さんのキラキラしたピアノの前奏が流れると、一つの緊密な空気がうまく生まれて、7歳の少年になり切った女房のドラマティックな歌唱をしっかり支える土台を作れたかな、と思います。変拍子も多く、曲の変化も目まぐるしい20分近い大曲は、歌う方も伴奏する方も、実は字幕スライド映写の方も相当緊張感を持って臨んだんですが、曲の終盤には客席のあちらこちらですすり泣きの音が聞こえ、小さな会場だけに余計に、お客様と演者が一体になって最後のクライマックスに向かっていった感じがしました。

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みっしりと密度の濃い時間を作り上げることができました。

 

GAGというユニットを初めてもう13年。ほそぼそと続けてきた活動ですが、今回やってみて、こんなカップリングの公演を制作できる団体なんてなかなかないんじゃないかな、と自画自賛してみたりする。12年間、ティオの世界を描き続けてくれている長谷部和也さん、七色の音色のピアニスト田中知子さん、舞台スタッフとして現場を支えてくれた娘と同級生の2人、チーム名「インスペクターズ」、そして会場のl'atelierのスタッフさん。本当にありがとうございました。そして何より、ご来場いただきましたお客様、本当にありがとうございました。南の島と、アメリカ南部、という全然違う土地の物語が、東京の会場で一つになり、皆様が、自分にとっての「My Home」って、どこなんだろう、という問いかけを共有することができた、そんな時間になったのなら本当に嬉しいです。

この夏の物語、これまでの物語、これからの物語

今年の夏のさくら学院は本当にイベントラッシュで、ざっと並べてみても、

 

8月4日、TIFスカイステージ・ホットステージに出演

8月11日、公開授業、一五一会の授業

8月18日、ちゃおガールオーディションにゲスト出演

8月24日、スタンディングライブ、夏のミュージックアワー

 

と、毎週のようにイベントがありました。逆に9月になって、今週末は生徒さんたちに会えない、とロスにはまる父兄さんが続出する始末。これ以外にも、MOMOKO-METAL爆誕、森さんの軽妙な仕切りが楽しめたJFNPARKのラジオ配信、山出さんの安定の活躍、新谷さんのラジオ配信や、FACTORY GIRLSでの日髙さんのアンダースタディとしての活躍など、卒業生の活躍も報じられ、父兄にとって嬉しいニュースが続きました。

私自身は、公開授業の一時限目と、スタンディングライブの昼夜公演に参戦しましたが、そこで感じた印象や、TIFの映像などの印象をまとめると、この夏は、2019年度のさくら学院にとって、一つのチームとして絆を深める意味で大きなターニングポイントであり、そしてひょっとしたら、さくらの歴史の中でも、後から振り返って大きな転換点になったともいえる夏だったのかも、と思ったりします。

2016年度の「秋桜学園合唱部」の舞台、2017年度のアミューズフェスへの参加、そして、2018年度の学院祭の「時をかける新谷」の寸劇が、それぞれの年度のチームビルディングに大きな役割を果たしたように、さらに、その後のさくら学院の在り方や成長の方向性に大きな影響を与えたように、今年の夏のイベント、特にTIFとミュージックアワーは、このグループの今年度のチームを作り上げる意味でも、そしてこれからのさくら学院の道筋を示す意味でも、そして何より、これまでのさくら学院の紡いできた物語を継承する、という意味でも、大きな夏だったような気がします。まだ振り返るのは早くて、今年度には学院祭やRoad Toなどの大きなイベントがまだまだ待っているんですけど、それでもそう思ってしまうくらい、TIFとミュージックアワーの舞台には、色んな物語が詰まっていた気がします。

さくら学院というのは部活なので、毎年メンバーが入れ替わってしまう。「今年はいいよね、来年もあるから」という言葉が通用しない。今年度のメンバーでこの舞台に立てるのは一度きり。そういう気迫と、また再びこの舞台に立てた、という喜びが爆発していた感じのTIF。ステージの映像を見た感想だけで言うと、他のアイドルさん達やそのファンの方たちの視線もあり、新年度初の大きな舞台ということもあり、生徒さんたちはむしろ、お互いの笑顔を確かめ合ったり、お互いのアイコンタクトを多くしたりして、互いの絆を確かめながら、自分たちがどこまでできるのか測っているような感覚がありました。そして、またTIFに戻ってこれた、という充実感と笑顔。

そんなTIFで自分たちの可能性を確認した後に披露されたミュージックアワーでは、ここまでできる自分たちの力で、過去のさくら学院が積み上げてきた物語を歌い継いでいくのだ、そして超えていくのだ、という気概を強烈に感じました。何よりも、昼夜公演で披露された曲数の多さ。ざっと並べただけで、全16曲。これを4月から夏にかけての期間にここまで仕上げてくる集中力。

 

昼公演:

1.負けるな!青春ヒザコゾウ

2.Hana*Hana

3.Hallo!IVY

4.チャイム

5.ベリシュビッツ

6.島人ぬ宝(一期一会伴奏)

7.キラメキの雫

8.FRIENDS

9.message

E1 ミュージック・アワー

E2 君に届け

 

夜公演:

1.FLY AWAY

2.オトメゴコロ

3.チャイム

4.School days

5.Hana*Hana

6.島人ぬ宝

7.キラメキの雫

8.FRIENDS

9.Carry on

E1 ミュージックアワー

E2 夢に向かって

 

これまでのさくら学院が積み上げてきたものを歌い継いでいくのだ、乗り越えていくのだという気概を一番感じたのは、なんといっても夜公演で披露されたCarry onでした。2018年度の中三の表現力があったからこそ完成した、さくら学院の一つの到達点とも言えるこの楽曲に挑戦した2019年度の気迫。もちろん歌唱の表現力はまだまだ未熟な部分はあるけれど、それでも、2019年度中三のそんな想いを、中二や中一の伸び盛りの歌唱がしっかり支えて、夜公演のCarry onでは、私を含め、頬を濡らす父兄さん達が沢山いらっしゃいました。

小中学生の可能性や能力をあなどってはいけなくて、彼らに高いハードルを与えれば、想像以上の成長を見せてくれるもの。そういう意味で、この夏のイベントラッシュを経て、一番成長したのは中学一年・二年生の中堅メンバーなんじゃないかな、と思います。パワーを増した八木さん、安定感と外向きのエネルギーが迸り始めた田中さん、全体のシンクロ性を超えるキレ味のダンスと、安定した歌唱の戸髙さん、恵まれたシルエットと笑顔でダイナミックなダンスを見せる佐藤さん。そして、振りまく笑顔の魅力が半端ない白鳥さんと、楽曲の物語への表現意欲が半端ない野中さん。

この夏を経て、さくら学院の大切な伝統が、中学一年・二年の中堅メンバーに受け継がれたことで、次の10年に向かうこれからの物語への基礎が作られた、今年の夏はそんな意味合いを持っていたのかもしれない。この夏の物語は、これまでのさくら学院が積み重ねてきた物語の新章であり、これまでのさくら学院の物語を歌い継いでいこうという意思の物語であり、そしてその物語が、次の10年に続くこれからのさくら学院の物語へとつながっていく。Carry onの冒頭に流れる時計の音のように、受け継がれていくさくら学院という長い物語の大きな一章をじっくり味わえた、とても濃い夏でした。