オペレッタの同時代性〜「天国と地獄」から「こうもり」へ〜

先日「天国と地獄」が、単なるギリシア神話のパロディ劇ではなくて、当時の政治体制への風刺を含んだ同時代性の高い作品だった、という話を書きました。実は今、5月27日に、ヨハンシュトラウス管弦楽団ガレリア座が共演する、「こうもり」の舞台稽古をやっている最中なのだけど、この「こうもり」という作品も、濃厚に当時の時代背景を反映している。今日はその辺の話を。


5月27日の公演チラシです。お時間ありましたら是非!

オペレッタ、といえば「こうもり」というくらいに耳に馴染んだ有名曲ですけど、この作品の同時代性に気づかせてくれたのは、ガレリア座の主宰者、八木原さんが長く関わっている、新宿オペレッタ劇場でのMCでした。そこで、「アイゼンシュタインは、ドイツ語で鉄石、という意味になるけど、これは当時、オーストリアの宿敵だったプロイセンの鉄血宰相、ビスマルクを意味している」という解説があって、そうかそうだったのか、と目からウロコが落ちた気がした。

当時の複雑怪奇な欧州情勢の中で、ひたすら衰徴の一途を辿るオーストリアハプスブルク帝国が、なんとか国威を保とうと、宿敵であったロシアにすり寄ったり、ハンガリー二重帝国と言ったレトリックを弄したり、断末魔の悪あがきを繰り返していた19世紀後半、1873年に作曲された「こうもり」には、当時の政治情勢が色濃く反映している。アイゼンシュタインを罠に落とす「こうもり博士」ことファルケは、まさしく童話のこうもりのようにあっちへフラフラこっちへフラフラと自分の居場所が定まらないオーストリアを象徴しており、そのファルケが復讐のために助力を頼むのが、ロシア帝国を代表するロシア亡命貴族オルロフスキー。そして、復讐の鍵を握るロザリンデが、オーストリアが頼みとした兄弟国ハンガリーの貴婦人を名乗るに至って、当時の欧州の政治情勢のカリカチュアが舞台上に見事に完成する。

そして、19世紀から20世紀の欧州文化を語る上で欠かせないもう一つの対立軸が、衰退する貴族の栄光と、それと入れ替わって台頭してきたブルジョワたちの対立。「こうもり」において笑い者にされるアイゼンシュタインは、裕福な銀行家、つまりは典型的な成金=ブルジョワ。このアイゼンシュタインが、フランスの貴族を気取って貴族たちが集う夜会に現れ、散々に馬鹿にされる、という筋書きに、客席に集った上流階級の客たちは、二重の意味で溜飲を下げた。殖産興業と軍事力でドイツ連邦の盟主となった「成り上がりの田舎者」であるプロイセン帝国の憎たらしい宰相と、貴族の品格を野卑な行動で汚す成金ブルジョワが、舞台上で笑い者になっている姿を指差して笑った。

今回「こうもり」の合唱の一員として舞台に乗るんですが、こういう時代背景を知った上で舞台に立つと、自分たちが貴族然としていないと、アイゼンシュタインの成金の浅薄ぶりが際立たないな、と思って、そこを一番意識しています。仮装パーティという設定の演出なので、結構とんでもないコスプレをして舞台に乗っているんですが(どんな格好かは当日本番会場で是非確かめていただきたいんですが)、それでも佇まいや所作はあくまで品良く、というのを心がけようと思っています。上手くいくといいんですけどね。

1873年当時、舞台上で弄ばれるアイゼンシュタインを嘲笑った貴族階級とその文化は、この後の第一次大戦を経て急激に滅び去っていく。その没落の姿を限りない哀惜と郷愁を込めて描いたのが、イタリアの映画監督ビスコンティで、その愛弟子だったゼフィレッリが、欧州オペラ演出の巨人として未だに影響力を持っていることを考えると、時代を超え、音楽を通して、未だに当時の貴族の想いが現代に響いているような感覚がします。