オペラを作ろう!「小さな煙突そうじ」〜ちょっと衒学的な感想を〜

女房が出演する東京室内歌劇場の「小さな煙突そうじ」、見てまいりました。かなり衒学的な感想書いてみたりして。
 

指揮:大浦智弘
演出:飯塚励生
 
ピアノ連弾 久保晃子/頼田 恵
ヴァイオリン1 中台寛人
ヴァイオリン2 佐藤千洋
ヴィオラ 内藤賢吾
チェロ 三矢憲幸
パーカッション 二見智祥
 
キャスト(1・2幕役名/3幕役名)
ノーマン/親方ブラックボブと御者トム:水島正樹
グラディス/家政婦ミス・バゴット:田代香澄
マックス/親方の息子クレムと庭師アルフレッド:中村祐哉
パメラ/育児係ローワン:津山 恵
アン/ジュリエット・ブルック:安陪恵美子
ブルース/ゲイ・ブルック:大津佐知子
モニカ/ソフィー・ブルック:伊藤邦恵
ピーター/ジョン・クローム中島愛
メイヴィス/ティーナ・クローム:二見麻衣子
ラルフ/ヒュー・クローム:木綱麻紗子
ジョン/新米煙突そうじやサム:植木稚花
 
という布陣でした。
 
オペラを作ろう、という副題通り、第一幕・第二幕は、「小さな煙突そうじ」というオペラを作ろうとする劇団員たちの製作過程が描かれ、そこで我々観客も合唱として参加することになり、そして、第三幕のオペラにつながっていく、という構造。いわばオペラ「小さな煙突そうじ」は劇中劇として上演されます。

この劇中劇、という構成はシェイクスピアの「真夏の夜の夢」の時代から舞台作品においてしばしば取り上げられているし、舞台上で起こっていることと観客の間の境界が溶解していく感覚、というのは、劇場という、日常から切り離され、閉鎖された世界の中で、同じ時空を共有する、という、演劇ならではの仕掛けだったりする。「小さな煙突そうじ」について書かれた論文なんかを読むと、そもそも発声技術の未熟な子供たちにオペラを歌わせる以上、歌い手の力量で観客を舞台に引きつけることが難しい、という実際的な判断のもとに、ならば観客自体を舞台に参加させてしまうことで観客の集中力を保とう、という現実的な要請が生んだ構造であったそうな。でも、この「劇中劇」という入れ子構造そのものが、ミシェル・フーコーがベラスケスの「侍女たち」について論じたような、主体と客体の絶え間ない交替、という主客の流動性を担保する。我々観客は見る主体でありつつ、舞台の演者から見られる客体でもある。(さあそろそろ衒学的になってきたぞー)

入れ子構造を意識させる仕掛けとして、観客が参加しての合唱、という仕掛けは一番分かりやすいものなのだけど、実は第一幕・第二幕にも、その入れ子構造を想起させる伏線が仕込まれている。それは第一幕で初めて劇中の音楽として紹介される、煙突そうじのサムの「のぼらせないで」というフレーズとメロディであったり、第二幕で部分的に練習されるローワンのソロや、子供たちのアンサンブルであったりする。第一幕や第二幕で練習された音楽やシーンが第三幕で再現されると、観客が否応でも、「あ、あの音楽だ」「あそこでみんなが練習していたシーンだ」と、オペラの物語の外縁に設定されたもう一つのフィクション、いわば言語を語るメタ言語の存在を想起せざるを得ない。ベートーベンの第九交響曲の第四楽章で、第一・第二・第三楽章の主題が再提起された時に、我々の前に立ち現われる作曲者ベートーベン自身の視点のように、作品そのものを上から俯瞰する視点。舞台を見る我々観客の視点は、主体と客体の間を流動するだけでなく、劇中劇の世界とその劇中劇が作られている外縁の世界、さらにそれを見つめている我々のいる現実世界、という3つのレイヤを、いわば三次元的に流動することになる。

この流動は我々観客に演劇的に心地よいカタルシスをもたらす。巨大なブランコに乗せられたように、主体から客体へ、中心から外縁へと自分の視点が揺らぐたび、観客のアイデンティティは揺らぎ、観客自身を囲む現実が非現実性の中に溶けていく。自らの視点の相対化と世界に対する視点の変化。それがもたらす快感。

舞台上にも、この入れ子構造のメタファーが無数に散りばめられている。子供部屋、という空間そのものの持つ閉鎖性。その中の、煙突、というさらに閉鎖された空間。サムは煙突という閉鎖空間から、おもちゃ棚、という閉鎖空間、トランク、という閉鎖空間へ、複数の「中心世界」を移動していく。サムの存在は何度となく観客の前から閉鎖空間の中に消える。我々は、舞台の登場人物とともに、そこには見えないサムが、その閉鎖空間の中に存在している、という「概念」を中心に演技し、そこに隠されているサムの存在が大人たちという「外敵」(=外縁からの侵入者・破壊者)に知られてしまうかも、というスリルに震える。

物語の基本構造自体が、子供を中心として、それを取り囲む大人たちの世界、という中心と外縁の構造を保っている。そして、現実の我々と物語世界の境界で、強烈な存在感を放っている小編成のオーケストラたち!彼らは構造を、境界を破壊し溶解させるパワーである音楽そのものとして、舞台上の左3分の一の大きなスペースにどーんと自分たちの存在を誇示している。オーケストラは、オペラというフィクション世界と我々の世界の境界に存在しているマージナルな存在で、普通はオーケストラピットにいて自分の姿を隠すはずなのに、ここでは舞台上で圧倒的な存在感で鎮座し、そして第二部では観客を扇動して合唱の稽古までさせる。「さあ、あなたも、この音楽の力を借りて、非現実の世界へ旅立ちなさい」というように。

物語のフィナーレ、サムが旅立っていく馬車は、子供部屋という閉鎖空間を飛び出し、大人たちが彼の周りに築いた様々な境界を飛び越え、自由、という名前の上位世界へと駆け上がっていく。煙突、という胎道の途中で引っかかり、いわば「死産」した胎児だったサムは、新しい子宮である子供部屋の中で、同じ年頃の子供たちの慈愛によってふたたび慈しまれ、新生児として新たな人生に向かって生まれ変わる。まさに浅田彰が「逃走論」で描いたスキゾ・キッズそのもののように、サムが旅立っていったのはひょっとしたら、我々のいる現実世界よりもはるか上位にある彼岸の世界なのかもしれない。

・・・衒学的な記述はこれくらいにして、単純に、子供たちが大人の身勝手をブッ飛ばしていくこういうお話自体本当に好きで、底抜けに明るいフィナーレ曲を一緒に歌いながら、なんだか泣けてしょうがなかった。劇場一杯を弾けるように駆け回る演者の皆さんもそれぞれ本当に素敵。オペラ歌手がストレートプレイを演じる、というのは大変な挑戦だったと思うけど、皆さん大熱演だったと思います。個人的には、煙突そうじのサム君を演じた植木稚花さんの可愛らしさに、おじさん的にメロメロ。

これで4回連続のせんがわ劇場公演出演となる我が女房どの、ゲイ・ブルック、というキャラクターになり切るために、一つ一つの動作や発声を工夫し、研究している様子がうかがえました。単なる「オペラの少年役」というのではなく、イギリス上流階級の家の長男として生まれた子供の存在感や責任感まで、しっかり表現できていたと思います。また一つ、演技の幅を広げたね。

今回はちょっとわけのわからないレビューになっちゃいましたけど、せんがわ劇場、という場所の利点を最大限に活かしたこのシリーズ、本当に毎年の楽しみになりました。地元調布市の住民として、こんな素敵なシリーズが調布市にある、ということを誇りにしたいと思います。支えてくださったスタッフの皆さん、共演者のみなさん、素敵な時間をありがとうございました。これからもこの調布から、素敵な音楽を発信し続けてくださいね。

イギリス上流階級の少年、御年13歳でございます。