削ぎ落すこと

実は先日、ウチの会社がNHKのニュースで取り上げられる機会があったんです。朝の報道番組の中の10分弱のミニ特集だったんですが、この10分間のために、記者の方は秋口くらいから取材にいらっしゃって、企画の説明に始まって色んな情報収集を重ねてきました。会社の施設に実際にカメラが入って撮影をした時には、ほとんど半日がかりでずっとカメラを回していて、施設の様々な場所や作業中の風景や、インタビュー(私ではなくウチの元社員)を撮影してました。多分映像素材としては数十時間近い素材を集めたのじゃないかなぁ。

でも、実際に放送されたのはそのうちの10分程度。カメラで執拗に撮影していた構内の作業の様子や、ウチの若手社員の様子なんかは全部カット。「映らなくて残念だったねぇ」なんて社内で慰めたりもしたんですが、なんかその、「削ぎ落されたもの」というか、「捨てられたもの」のことが結構気になっちゃったんですよね。

舞台表現でもそうですけど、色んな無駄な動作やセリフを削ぎ落してなるべくシンプルな表現を目指すのが表現の基本だと思います。先日配信されたさくら学院の公開授業で、落語の授業をやったんだけど、講師の立川志ら乃さんが、「二人の登場人物の会話を表現するのに、視線を動かす幅を左右に大きく広げすぎると、かえって誰に向かって話しているのか分かりにくくなるから、視線の幅をできるだけ狭くするんだ」という趣旨のことをおっしゃっていて、こうやって色んな伝統芸能の所作ってのは洗練されてきたんだなぁってちょっと感動した。多分最初にその演目を初演した時の所作が、100年以上の時間の中で必要最小限なところにまでそぎ落とされて、これしかない、という動きに凝縮されていったんだろうなぁって。

でも一方で、志ら乃師匠は「あまりやり過ぎず、お客様が想像できる余地を残しておくのも大事」みたいなこともおっしゃっていて、削ぎ落す、という行為は、表現する側と受け取る側との一定の信頼関係がないと成り立たないのかな、という気もしたんだよね。削ぎ落された先にあるものを想像できる想像力が受け手側にないと、少しだけ動かした視線の先にもう一人の登場人物を描き出すことができない。それを心配して「分かりやすい表現」を目指してしまうと表現は大きくなりすぎてなんとも「野暮」になってしまう。表現を洗練するのは、表現する側と受ける側の「粋」の応酬だったりするんだよな。

10分間のNHKニュースを見て、確かにウチの若手社員の雄姿はカットされてしまったのだけど、ストーリの中に必要最小限の素材を盛り込んでコンパクトに分かりやすくまとめられた編集には感心しました。一つの「テーマ」をどう視聴者に伝えるか、という所で、無駄なものを削ぎ落していく「情報の編集技術」っていうのはすごく大事なんだろうね。映画なんかでも、一番大事な作業は編集だ、と言われることが多いけど、ヒットした映画がディレクターズ・カットで再編集された結果、元の編集版が持っていた魅力を失ってしまうこともあったりするから、作り手の想いと受け手の評価、というのは必ずしも一致しないんだよなぁ。

一方で、要するにこういう「情報の編集技術」というのが、今のマスコミの胡散臭さにもつながってるんだよなぁ、とも思う。政治家のスピーチの中でちょっと脱線した部分だけを前後の脈絡抜きで取り出して、「問題発言」と騒ぎ立てるマスコミの醜態には辟易させられることが多いんだけど、逆に言えば、マスコミは、それだけ高度な編集技術を持っている、とも言える。不幸だなぁ、と思うのは、マスコミと視聴者の間で、舞台芸術表現者と受け手の間の信頼関係や共通の理解のようなコミュニケーションの基盤が最近とみに脆弱になってきているような感覚なんだよね。どうしてこうなっちゃったんだろう、なんて考え始めるとまた議論が深みにはまりそうなのでここでは深掘りしないけど、なんとなくマスコミも視聴者も「粋」じゃなくなってきたのかなぁ、なんて思ったりする。