マスコミには本当に失望するんだけど、じゃあ何を信用するんだろうか、と

最近妙に剛力彩芽さんを色んなメディアで見ますよね。個人的には別に好きでも嫌いでもない、という感じで、ちょっと個性的な顔立ちだなあ、と思う程度なんだけど(って、ファンの人がいたらすみません)、とにかくやたらに見る。ジュエリーつけたり、映画の試写会にいたり、とにかく色んなところにいる。穿ち過ぎかもしれないけど、ここまで露出が多いと、自然発生的に人気が出てるわけじゃなくて、事務所が必死にプッシュしてるのかなあ、なんて大人の事情を感じ取ってしまう。AKB48にしても、女の子たち自身よりも、AKB48という仕掛けを社会現象にしようとする大人の思惑が透けて見えて、何となく嫌気がさしてきたり。そういう大人の事情をメンバーの半端ない弾けっぷりでぶっ飛ばしている、ももいろクローバーZの方がなんとなく好感が持てたりして。

自分が大人になったので、若いアイドル達を売り込む大人の側の戦略が見えてしまう、というのもあるとは思うんだけど、一つの現象やトレンドを発信する人たちがこれだけ複線化してしまうと、仕掛け見抜く人やら、仕掛けそのものを作ってる側からのリークやらも流れてくる。ネット上ではトレンドから外れた視点からものを言うことに価値を見いだす傾向もあるからねえ。

麻生さんが「さっさと死ねるように」と発言した、と、ここぞとばかりマスコミが叩いて、「こんな人私は信用しません」と街角で憤慨するお年寄りの姿が、海外でもCNNなんかで流れたりしたみたいですけど、ネット上ではすかさず、「また来た偏向報道」という反論が出てくる。以前の自民党政権下で上げ足を取りまくったマスコミも、民主党の素人政治家たちのぶっ飛んだ暴言にはずいぶん甘かったからねぇ。「政治家がこんなことを言いました」的な報道を100%信用する人はもう少数派なんじゃないか、ということに、マスコミもそろそろ気づいた方がいい。というか、マスコミの報道そのものに、報道するマスコミの主張、「書き手の意思」という大人の事情がある、ということも、今では誰もが認識している。大手TV局の大株主である韓国企業のご機嫌も取らないといけないよね、とか、あの新聞は岸内閣の時代から反自民党だ、とか、あの新聞は右寄りのことしか書かない、とか。

鈴木宗男だったか誰かが、マスコミはそれ自体が政治勢力である、といった発言をしていた記憶があって、民主党政権を生み出した一つの大きな勢力が、マスコミであったことは否定できない事実だと思う。となれば民主党政権下の失われた三年間や、頼まれもしないのに中国に行って頭を下げてきた国賊に元首相という肩書を与えたのも、日本のマスコミという政治勢力の生み出したもの。民主党政権の3年間に対する失望は、そのままそれを強力に支持したマスコミそのものへの失望につながっている。今やマスコミが何を書きたてようと、マスコミは世論を作ることはできないんだろうな、と。

アルジェリアで犠牲になった人の名前を公表しろ、と朝日新聞が強硬に言った、という話を聞いて、ある知り合いのエピソードを思い出しました。昔、大阪教育大学付属池田小学校事件があった時。新聞に掲載された被害者の子供たちのリストに、高校時代の同級生と同じ苗字の子供を見つけた。そういえば、その年頃の子供がいたな、と思い、ひょっとして、と電話をした。電話口で、「あの事件の娘さんって、ひょっとして」と聞いて、「そうだ」との答えが返ってきた時、私の知り合いは絶句してしまったそうです。絶句しながら、自分がどれほどひどいことをしたのか、ということに気付いて、激しい自責と後悔に襲われた。「そうだ、オレの6歳の娘が殺されたんだ」という答えに対して、慰めの言葉も救いの言葉も何も用意しないで、ただ電話してしまった自分。その電話の呼び出し音自体が、どれほど遺族の方にとって、心に突き刺さる音の暴力だったか。

被害者の名前を公表することは、そういう無数の「善意の暴力」を生み出すことになる。日揮という会社のすごさは、発展途上国のプラント事業という高リスクビジネスの中で、今回のような最悪の事態が発生した場合の被害者の遺族の心まで事前に想像して、そこにしっかり寄り添っているリスク管理のすごさ。そんな日揮の熟慮や配慮すら、マスコミは踏みにじる。言論の自由を確保するために、そっとしておいてほしい、という遺族を無理やり説得して亡くなった方の名前を公表させ、報道の自由の名のもとに偏向報道を流して世論を誘導しようとする。

そういうマスコミに対する失望はどこに流れていけばいいんでしょうね。だからネット世論に流れるべきか、というとそれも結構怖いし、橋下維新の会みたいなファシズム的なトレンドもやだしなぁ。まぁ橋下維新の会は、当の橋下氏が非常識と無教養をさらけ出して「モンスター・政治家」化して自滅しつつあるからいいんだが。

あんまり結論は出ないんだけど、何に対しても懐疑の目を向けていって自分自身の軸を見失う不安な状態こそ、一番ファシズム的な集団狂気に流れやすい状態。自分の論理の軸、白洲次郎の言う「プリンシプル」をしっかり確立しておくことが大事で、何かしら迷った時に、必ず立ち返る思考の軸をしっかり持っておく、ということなんだろうかなぁ。ありきたりな結論だけどね。