アイドルという物語、歌舞伎役者という物語、姉妹の絆という物語を演じ続けること

NMBとかいうアイドルグループのお嬢さんが結婚宣言して大騒ぎになってるようですが、久しぶりの投稿はそんなことも含めて思ったことをつらつらと。この書き振りからお分かりの通り、私はアイドル系には全く疎いので、大変的外れなことを書き散らしますが、そこは例によってご容赦を。

アイドルという存在を、歌唱力とか演技力とかルックスの良さ「だけで」評価する、なんてのは、あまり意味のないことで、それは多分かなり昔、ひょっとしたら江戸の昔にアイドルだった歌舞伎役者の時代でも、すでに意味を失っていたのかも、なんて思う。舞台に立って自分の肉体やその肉体による表現を人の目に晒すことを生活の糧にしているパフォーマーは、多かれ少なかれ、その肉体の美しさやパフォーマンスの優劣だけではない、その人に与えられた「物語」の中の役割を如何に誠実に演じきるか、という点を合わせて評価される。それは、舞台表現だけではなくって、自分の心の中にあるものを文字や絵画という形で外部化する小説家や画家などの表現者にも多かれ少なかれ共通する評価軸で、芥川龍之介の作品群は、彼の自殺という実人生の幕引きによって、自我を削り続けた彼の文学表現を完結させた、と言えなくもないし、太宰や漱石にも同じような評価が下される部分があると思う。

特に、テレビというメディアによってお茶の間に入り込んできた「タレント」または「アイドル」と呼ばれるパフォーマー達は、パフォーマンス自体の品質よりも、その人の生き様、あるいは「この人はこういう人生を歩んでいるはず」という視聴者の作り出す幻想の生き様によって、商品価値が変動する。高畑淳子さんという卓越した舞台女優さんが、息子さんの醜聞でブランド価値を下げた時に、「私は女優というより、高畑淳子という商品ですから」という趣旨の発言をされていて、舞台女優という商品からタレントという商品へ自分の看板を付け替える時に、この人はそういう覚悟をしたんだろうな、と思った。

テレビという現代的なメディアを待たなくても、伝統的な家の芸を商品にする歌舞伎役者のパフォーマンスには、その役者個人の芸だけでなく、かなり下世話な「家の物語」が役者の姿にダブって見えることで、それが芸への評価をさらに高めている要素が必ずある。中村屋勘九郎七之助兄弟の活躍に、亡き勘三郎の人懐っこい笑顔を見て感動すること、そしておそらく今後、成田屋の芸を見て小林麻央さんの姿をダブらせて感動すること。そういう無数の物語の蓄積の上で、自分に与えられた役割、世間が期待する役割を演じきる誠実さ。親の七光りというサポートを超えて、自分の芸を極めていくストイックさ。自分自身を商品とするパフォーマーに求められるのは、パフォーマンス以外の場所でも、自分に与えられた物語を演じきる覚悟。

それって要するに「セルフプロデュース」ということだよね、と言われればその通りなのだけど、それを商品として生活の糧にするプロの厳しさ、というのは、SNSによって普通の人がカンタンにネット上の自己を創造できる今日において、より一層際立つ気がする。ネット世界で期待される自分自身を演じきることができずに炎上したり、周囲をただ不愉快にしたりする人たちが多い中で、カネになる「自分像」を保ち続ける精神力と努力。私自身も、舞台上で自分の肉体とパフォーマンスを人に見せる人間の端くれとして、SNS上の「セルフプロデュース」にはそこそこ気を使います。いわゆる「盛ってる」状態が結構続いてて、時々しんどくなることもあるんだけどさ。でもやはり「下手なことは言えん、書けん」と思うのだよ。

そういう意味では、NMBの須藤さんという方は、みんな同じお人形さんにしか見えないAKBグループの中で、独自の「物語」を構築しようとした先駆者なのかもしれないし、期待された物語の中の役割を演じることに失敗した落伍者なのかもしれない。それは彼女がこれから紡いでいこうとする物語の行方によって決まること。「頭を脱いでしまったミッキーマウス」は今後どんなペルソナをかぶってどんな物語の主人公になっていくのか。

須藤さんの結婚宣言や、小林麻央さんの訃報など、自らに与えられた物語を演じるひたむきな人たちについて考えることが多かった今日この頃。それでこんな文章書いてるのね、と言われると、実はちょっと違っていて、こんなことを書いてみたいと思ったのは、例によってbabymetal絡みだったりします。また書くんか、babymetalネタ。

babymetalのボーカルの中元すず香さんのお姉さんが、乃木坂46の一期生の中元日芽香さんだ、と言うのは結構有名な話なのだけど、実はこの日芽香さんを語る上で、色んな人が、「劣等感」と言う「物語」を口にする。世界的メタルボーカリストとして活躍している優秀な妹を持ちながら、今ひとつ歌にもダンスにもキレを欠き、乃木坂ではなかなか選抜メンバーになれない。そんな劣等感をバネに、真面目にひたむきに努力を続ける姿で、スタッフや共演者に愛されているけど、どうしてもセンターに立てる才能には恵まれていない努力の人…

それが日芽香さんの本当の姿なのかどうかは、本人とその周辺の一部の人にしか分からないことなのだけど、彼女を見る多くの人が、そういう「物語」を彼女の後ろに紡ぎあげているのは確かなこと。なので、その日芽香さんが、今年初めに、体調不良を理由に、数ヶ月の活動休止を発表したとき、受け手側に様々な「物語」が発生した。彼女が番組レギュラーだったオリラジさんの「らじらーサンデー」で、オリラジの藤森さんが、「中元は必ず戻ってくる」と言った時、「引退」という文字も含めた色んな「物語」が、業界関係者の間でも囁かれていたんだろうな、と思う。

そういう「物語」は、日芽香さん自身が積極的に発信しているものではなく、あくまで受け手が想像の中で紡ぎあげたフィクション。そして3月、予告なしで生放送のスタジオに戻ってきて、活動再開宣言した日芽香さんの姿に、藤森さんが思わず涙してしまったことで、中元日芽香、という一つの物語が、クライマックスを迎えることになる。

繰り返しになるけど、これは日芽香さん側が積極的に発信した物語ではない。日芽香さんは滅多に自分の妹のことを語らないし、体調不良の原因もまだ彼女自身からは語られていない。でも、受け手側が作り上げた「物語」に対して、ひたむきに「アイドル中元日芽香」を演じきろうとする姿に、この姉妹が持っている強烈な「覚悟」を感じてしまうのだね。それ自体、私が勝手に紡いだ「物語」なんだけど。

日芽香さんのパフォーマンスは、もちろんそんな「物語」抜きでも充分ハイクオリティで、割と普通の優等生美少女が揃っている印象のある乃木坂の中でも、癒し系のルックスと突き抜けたアイドルキャラで勝負する日芽香さんの存在感は際立っている。アイドルかくあるべしって感じがする。なんか色々アカデミックっぽいこと書いたけど、最後は結局、中元姉妹礼賛で終わっちゃいましたね。しかし、こういう、覚悟を決めた姉妹の強い絆って言うのも、最近よく見る一つの「物語」なのかも、とも思う。小林麻耶さんと麻央さん、浅田舞さんと真央さん。そういえば、「アナと雪の女王」もそういう物語だったな。秋篠宮家の眞子様佳子様姉妹の覚悟にも重なったりして。重ねてるのはオレだけか。