別件逮捕だよね?

耐震強度偽装事件、関係者逮捕、って、トップニュースになってますけど、なんかすごく違和感があるんです。名義貸しとか、粉飾決算とか…要するに、別件逮捕ですよね?

10年前、オウム真理教の事件の時、沢山の信者たちが逮捕された際、ほとんどの罪状が別件逮捕でした。その時、警察の強硬姿勢に対して疑問を呈する声もなかったわけじゃないと思うんです。少なくとも、10年前、マスコミは、警察権力が、事件の中核とは関係のない容疑で人を逮捕することに対して懐疑的だった。でも今回の耐震強度偽装事件では、「別件逮捕の是非」について問題意識を持っている論評が一切見当たらない。逮捕は当然、むしろ遅すぎるくらいで、早急な事実の解明が求められる、なんていう論評がほとんど。

では、この10年間で何が変わったのでしょう?…少なくとも、警察権力に対する懐疑的な姿勢が改善されるほど、警察権力の信用度が上昇した、ということではないと思います。相変わらず警察の不祥事に対するマスコミの視線は厳しいし、警察自体もそれほど体質改善したとは思えない。とすれば、それは、犯罪者に対するマスコミの態度の変化と、犯罪自体の性格の変化、の2点に集約される気がします。

後者の、犯罪自体の性格の変化、という点で言えば、ある意味自分でも納得がいく気がするんです。堀江貴文くんが逮捕された時もそうでしたが、要するに、世の中の変化があまりに早くなってくると、現行法制度の改変がそれに追いつかなくなってくる。結果、法の隙間や、グレーゾーンで、真面目にやっている人の足元を掬うような、「不正行為とは言いがたいけどアンフェアな」行為で利益を得る人や、損害を被る人が出てくる。こういう行為を取り締まろうと思えば、ある程度超法規的な措置や、別件逮捕といった手法を使っていくしかない。耐震強度を偽装したからといって、その偽装行為自体を刑事罰として罰する法律がない以上、逮捕は本当はできないはずです。でも、そのアンフェアな行為によって大きな被害を被る人がいる以上、何らかの形でその実態を解明した上で、刑事罰を課す道を考えないといかんだろう、という自浄的な作用。

…そう言えばキレイに聞こえるんですが、昔法学部生(あほー学部でしたが)の目から見ると、どうも胡散臭い気はするんです。その行為が「アンフェアである」かどうか、というのは一体誰が判断するのか。その判断基準になるものとして法律があるはずなのに、法律に定められていないけど「これはずるいだろう」とか、法には触れていないけど「こいつがこんなに得するのはおかしい」という判断で、人を別件逮捕するのって、どうなの?その判断って、マスコミが下している適当な判断なのじゃないの?そこにきちんと警察権力のチェック能力は働いているんだろうか。

前述した2つの変化のうち、前者の、犯罪者に対するマスコミの変化、という点になると、胡散臭さはさらに増すんです。もちろん、そのトレンド自体を否定する気はないんですが、ある意味、「気分的なトレンド」で左右されているのは確かだと思うんですね。以下は、具体的な検証を加えていない私の仮説なんですが…

以前のマスコミは、今よりも、加害者の人権を守ることに重点が置かれていたのじゃないかな。それは、警察権力自体への不信、ということがベースにあったわけですけど、その深層心理には、戦時中の官憲による徹底的な思想統制や、安保闘争などの思想闘争において若者が抱いた、警察権力に対する根強い反感、というものが横たわっていた気がするんです。

でも時代は変わり、警察官というのは、何かあればヒトを逮捕しようとしている権力者として、常に監視下に置かれねばならないヒト、という立場から、次第に悪化する治安環境の改善のために一生懸命働いてくれている近所のおじさん、という立場に変わってきている気がする。それに伴い、加害者を、「警察権力によって誤って罪を問われているかもしれない弱者」として見るのではなく、「ただでさえ悪化している治安環境の悪化に手を貸す悪者」と明確に規定するトレンドが生まれているのではないか。

さらに、犯罪自体の不条理性や凶悪性が高まってくるに従い、加害者への同情心はどんどん薄れていく。逆に高まってきたのが、被害者に対する同情です。被害者の人権保護が叫ばれるようになり、不条理な犯罪の加害者に対する量刑が「少なすぎる」と訴える被害者の声が、マスコミで大きく取り上げられる。こういうトレンド自体を別に否定する気はないけれど、これって、時代の一つの「雰囲気」なのであって、決して客観的な正義ではない、ということは了解しておいた方がいい気がするんです。

別の言い方で言えば、ある時代背景においては、公権力への反発から加害者が擁護され、ある時代背景においては、治安の悪化から加害者が攻撃される。でもそれって、あくまで時代背景のなせるわざなのであって、ある時点で「加害者を攻撃することが正義だ」とか、「加害者を擁護することが正義だ」みたいな、「オレのやってることこそが正義だ」なんていわれると、非常に胡散臭い気分になってしまう、ということ。

法律というのは、明文化されている分、そのあたりのモノサシとしては極めて客観性を持っているものなんです。法学部生(あほー学部生)としては、そういう法律の持っている力、というか、その時代における正義を客観化し、数値化する(xxという犯罪に対してyy年の懲役、という罰を当てはめるのは、まさに数値化ですよね)法律の機能が、「別件逮捕」という形で踏みにじられているのを見ると、なんとなくイヤーな気分になる。そんなに警察を信用していいんですかねぇ、という気分になるんです。

時代の要請に従って、法律も変わっているものですし、変わっていくべきものです。その変化が遅い、ということ、つまり立法府が時代の要請に答えられていないから、警察権力が正義の執行を代行するのだ…というのは、構造的にはものすごく怖いことだと思うんですけどねぇ。