言葉の力

「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」、と紀貫之が言った時代から、言葉というのは一つの武器で、本当の意味でペンは剣よりも強いのだな、と最近思う。人の生死、とまでは行かなくても、言葉って怖いな〜、というのは自分が日常生活で発している言葉なんかでも実感していることで、軽はずみにぽろっと発した言葉で、ずっと人間関係がこじれてしまう、なんてことはよくあること。

フランスのテロについて、やった方も悪いが言った方も悪いよな、という議論が結構あるし、その通りだと思う。でも、社会を変革するためにひたすら物理的暴力をぶつけ合うしかなかった欧州にとって、人の血を流さずに社会を変えることができる「言葉」という武器を確保するために、「表現の自由」というのが、とても大事にされているのも理解はしてあげないと、とも思う。

でもねえ、表現の自由基本的人権として確立した近代社会の初期って、社会を変えることができる言葉を「使う」手段自体が限られていたし、それを使える人もそれなりの人たちだったと思うんですよ。新聞にせよ、街頭演説にせよ、力のある言葉をあやつるためには一定の基礎知識が必要で、人がそういう基礎知識を学ぶ過程では、武器としての言葉の怖さ、聞き手に対するリスペクト、といった基本的な倫理感が共有されていたんじゃないかなぁ。

あんまり言うと、「表現の自由は一部の特権階級に限定されるべきだ」なんて極論に走っちゃって、それはマズイと思うんだけど、少なくとも聞き手の方は、言葉を発している側が言葉の使い手としてふさわしい人間なのか、しっかり見極める必要があるよな、と思う。そしてもう一つ、これは無理かなーと思いつつも、言葉の力を操ることができる立場にいる人は、自分の発する言葉に対してちゃんと責任を持ってほしいと思う。

フランスのテロの話だけじゃなくて、自分の発する言葉に対する責任感のなさ、とか、発せられた言葉に対してそれを無条件に受け入れて拡散する愚かさ、とか、最近やたらに目につく感覚がある。朝日新聞誤報問題、ヘイトスピーチなんていう話もそうだけど、ネットで垂れ流される食品異物混入情報を考えなしに拡散したり、STAP騒動で優秀な研究者を自殺に追い込んでおいて反省のないマスコミを見ていると、お前ら、言葉を使う仕事しているくせに、なんでそんなに「言葉の力」に対して無神経なんだ、とあきれてしまうこと多々。

平和な国だから、というのもあるんだろうけどね。戦前の日本の言論統制を知っている世代もいない。公に発言することが自分の命を奪うことになるかもしれない恐怖と、それでも発言することを権利として守る強い意志、だからこそ逆に、自分の発言に対して信念と責任を持たねば、なんていう気概は、今の日本のマスコミには期待できそうもない。放送コードを破って関係各所から袋叩きに会うのはものすごく怖がっているみたいだけど、ステレオタイプな報道姿勢と右へならえの迎合主義の結果の公開リンチで、人の人生を無茶苦茶にすることについては躊躇がない。

また困ったことに、インターネットが、誰もが言葉の力を行使できる究極の場を提供してしまった。ネット上で飛び交うむき出しの言葉たちが、ある日突然自分に襲い掛かってきて、リアルに命を奪ってしまうかもしれない無法状態。それが現代。

そんな状態になっているのに、あるいはそんな状態だから、なのかもしれないけど、言語能力とか言葉へのリスペクトとかが、全体的にすごく落ちてきている気がするんだよね。昔のように印刷物か手書きのものでしか言葉に触れることができなかった時代と比べると、今はネット上にとにかく言葉があふれていて、結果的に、言葉の相対的価値がどんどん下がってしまっているのかもしれない。でもねぇ、やっぱり言葉はリアルに人を殺すと思う。先日どこかで、親にDQNネームを付けられた子供が、結婚にも就職にも苦労する、なんて話が紹介されていたけど、名前、という言葉で一つの人生が壊されてしまう、という言葉の力の話でもあり、そういう言葉の力に対する意識の低さ、という話でもあるなぁ、と思って聞きました。

なんでこんなことをつらつら書いているか、というと、実に脈絡がないんですが、今年の歌会始で、秋篠宮家の佳子様が詠まれた歌を見て、冒頭に書いた紀貫之の言葉を思い出した、というのがきっかけだったりします。その歌。

弟に 本読み聞かせゐたる夜は 旅する母を 思ひてねむる

先日の成人を迎えての記者会見でも、積極的に自分の意思を発言する強い姿勢が話題になっているけど、この佳子様という方は、自分が発する言葉の力をよく分かっている人だ、と思う。美人なので注目度が上がっている、ということも十分了解しながら、父母を気遣い、大学関係者に配慮する言葉を、十分に選び抜いてしっかり発していく強さ。

初めての歌会始、ということで、半ば興味本位でこの歌を見た時、平易な言葉で、かつ自分の感情を露骨に表出する言葉は一切使っていないのに、愛情だけではない家族への複雑な思いが何重にも積み重なっている感覚があって、ちょっとぎょっとさせられた。そういう家族の絆を、初めての歌会始で詠むこと自体が、浅はかな言葉の暴力をぶつけて何かとバッシングしてくるマスコミから、大事な自分の家族を守るのだ、という強い意志表明のように思うのは、深読みのしすぎかしらん。

まあ、そこまで深読みしなくても、読んだ人の心がぽっと温かくなる、実によい歌です。他の皇族方の歌と比べてみても、個人的には一番好きな歌。日ごろから私は秋篠宮家びいきなので、ちょっとひいきのひきたおしの気味もありますけどね。ネット上の眞子様佳子様関連情報は必ずチェックしている父を見て、娘は、「父ちゃんはネットの佳子様萌えのキモイ連中と同類じゃ」と白い眼で見ております。いや、いい家族である、という皇族の大事な仕事をしっかりこなしているこの家の方たちは、本当にすごいと思うんだよ。美男美女ぞろいだし。いや、それは置いておいて。