「密」は人間にとって必要な「蜜」なのでは

どこまで行くのか底が見えない感じだったコロナ禍ですが、少しずつ光明が見え始めた感じがあって、そろそろ日本各地でも「出口戦略」が語られるようになってきましたね。その中で、「新しい生活様式」なんて話があって、この先2年間くらいは、「3密」を避けるように、という話が出ていて、防護マスクして飲み会やってる映像とか流れてる。それ見た誰かが、「こんなみっともない恰好で酒飲むくらいなら舌噛んで死ぬ」ってツイートしてて、気持ちわかるなぁって思っちゃった。

ベビメタ界隈では、「BABYMETALは誰でも知ってるだろ」という発言で有名なフーファイターズのデイヴ・グロールさんの投稿を紹介した記事がツイッターで流れてきて、そのあまりの熱さに思わず泣きそうになっちゃったんですけどね。

 

rockinon.com

 

この中で一番ぐっと来たのが、ライブという場がどれだけ人間の本質的な欲求に根付いているかを端的に述べているこんな文章でした。

「俺たちは人間だ。俺たちには、自分は1人じゃないんだと知り、不安をかき消す瞬間が必要だ。俺たちは理解し合えるんだと、俺たちは完璧じゃないんだと、そして最も大事なことは、俺たちはお互いを必要としているんだと知り不安をかき消す瞬間が必要なんだ。」

人間というのは社会的な動物で、人とのつながりがないと生きていけない。とはいいながら、そういう人とのつながりを維持することってそれなりにエネルギーが必要だし、本当に理解されているんだろうか、自分は人にとって価値ある存在なんだろうか、という不安から、人とのつながりを断って「引きこもり」になる人も多い。そういう不安を乗り越えて、老若男女が一つになれるのが、音楽を通したライブという空間で、そこで得られた一体感は、「俺たちは一つの場を共有できる、共感できる同じ人間なんだ」という安心感を与えてくれる。

ライブ空間っていう「密集・密閉・密接」の空間ってのは、そういう意味で、大変心地よい空間なんですよ。もっと露骨な言い方しちゃえば、性行為そのものが究極の3密なわけで、その快感は人類と言う種の存続を支えている。3密を避ける「新しい生活様式」というのは、限りなく人類という種そのものの本能に背く生き方で、そういう生活様式が定着した社会っていうのは、長期的に言えば種の存続そのものが危うくなる社会になっちゃうのじゃないのかなぁ、なんて思ったり。

もちろん、「新しい生活様式」自体、コロナ肺炎に対してそれなりに有効な治療薬ができて、インフルエンザよりもちょっと厄介な病気、程度にコントロールできるまでの一時的な生活様式、だとは分かってます。でもね、この「新しい生活様式」という言葉によって失われるものがどんなもので、それを失うリスクと、感染拡大のリスクの比較衡量、というのはちゃんとやった方がいいと思う。単純に、経済活動が再開できればいい、ということじゃなくて、もっと長期的に失われてしまう人と人との絆とか、生物としての生存本能、社会的本能のようなものへの影響とか。

もっといえば、人間って何のために経済活動やってるんだ、という話にもつながったりするんじゃないのかなぁ。仕事が趣味、という方は別として、多くの人が、文化や芸術が与えてくれる娯楽や、その「3密」の充実感を得るために日々の労働に精出してたりするんじゃないか、って思ったりするんですよ。デイヴ・グロールさんの言う、「俺たちはお互いが必要なんだ」と思える瞬間のために働いてるわけで、「新しい生活様式」ってのは、経済活動や労働の「目的」を毀損している気がするんだよね。俺たちは何のために働いているんだ、っていう。

一気に元の世界に戻すべき、と言ってるわけじゃないんですけど、「ライブハウスは3密だからダメ」とか、「合唱は飛沫感染リスク高いからダメ」とか、自分が愛する表現形態が「新しい生活様式」という旗印の下に否定されていくのがものすごく辛いんですよね。それによって失われているものがどれだけ大きいのか、っていうのは、もう少し議論されてもいいのじゃないのかな。例えば親しい人、愛する人とのハグとか、握手といった親愛の情を示す表現すら否定されてしまうと、ものすごく大事なものを失ってしまう気がする。「密」っていうのは、ひょっとしたら人類という種にとって、必要不可欠な心の栄養を与えてくれる「蜜」なのかもしれないんだから。