「密」はケガレを祓うもの

前回のこの日記で、ライブがもたらしてくれる「密」の快感が人間存在そのものに必要不可欠なものなんじゃないのか、「新しい生活様式」という議論の中で、「密」を避ける生活が、人間にとってものすごく大事なものを奪ってしまうのじゃないのか、という話を書きました。今日はその続きで、よく言われる、「ハレ」と「ケ」の話と「マツリ」と「密」の話をつなげてみたいと思います。結論は同じなんですけど、少し視点を変えて。

どなたかが新聞に寄稿されている文章の中で、今回の危機は、都市に集中(密)しすぎた現状から、地方へ人口が均等に分散していくリモート(疎)の時代へ変革していく好機である、という議論をされていて、それはその通りだな、と思った。東京及び首都圏への一極集中が生み出す様々なリスクのうちの一つが顕在化したのが今回のコロナ禍であることは確かで、その方もおっしゃっていたけど、移動手段が限定されていた昔は、多数の人が集まっている「密」の状態というのは一種異常な状況で、分断されたムラ社会がポツンポツンと点在している「疎」の状態が「日常」であり「常態」だったんだよね。

ポストコロナの時代が、密から疎へ、一極集中から分散社会へと変化していくことは、個人的には悪くない流れだと思うし、今のデジタル化技術と発達した物流インフラを組み合わせれば、経済活動をしっかり維持発展させながら人口が国土全体に均等に分散する社会をうまく作り上げることはできるんじゃないかな、とは思います。でも、そんな「昔の日本」に戻ったとしても、定期的な「密」の機会というのは必須なんじゃないかな、と思ったんですね。そして、かつての日本のような「疎」の社会において、定期的に生まれていた「密」の機会こそが、「マツリ」だったのじゃないかと。

日本文化を語る上でよく言われるのが、「ハレ」「ケ」「ケガレ」の概念で、日常生活を表すのが「ケ」。「ケ」は、「気」にも通じるのだけど、少人数の「ムラ」が点在していた「疎」の環境で、日常生活を淡々とすごしていく状態が「ケ」であったとすると、日々を重ねていくうちにだんだん気力が衰えてきたり、なんとなく鬱屈してきたりする。生活を支えるエネルギーになる「気=ケ」が失われる(涸れる)状態=「ケガレ」になる。その「ケガレ」を祓うために「ハレ」の日である「マツリ」を定期的に開催することで、日常を営む「ケ」を取り戻していた。

そして、日本全国、あるいは世界中のどの「マツリ」を見ても、密集した民衆による神輿行列や踊り、つまり「密」の状態が欠かせない。むしろ、「マツリ」における行列や踊りや様々な歌舞音曲などのエンターテイメント自体が、群衆の密集した状態、「密」を生み出すための道具として機能していると言ってもいいかもしれない。つまり、「ハレ」の空間は、ほとんど人の往来のない点在した「ムラ」の「疎」の状態と対局にある「密」の状態を作り出すことによって、はじめて「ケガレ」を祓うことができたのではないのか、と。

それは、前回の日記に書いた、「密」の中で体感できる社会的存在としての一体感であったり、自分の中の生命感の再確認であったりするのだろうし、昔の日本社会では、もっと直接的で、「マツリ」自体が男女の乱交を伴う祝祭の場であって、日ごろは離れて暮らす男女がそこで出会い性交することで近親婚による劣化を避けた、という機能もあったと思います。ポストコロナの時代になり、近現代が指向してきた「都市集中(密)社会」から、「分散(疎)社会」へ変革していこう、というのは否定する気はないのだけど、「疎」が日常化したポストコロナ社会においても、どこかで「密」(ハレ)の機会を維持することを考えないと、社会全体が「ケガレ」てしまい、活力を失ってしまうのじゃないのかなぁ、と。

そして、日本において、その「密」(ハレ)を生み出す「マツリ」の起源は、天照大神が天岩戸にこもることで失われてしまった、世界を支えるエネルギーである「光」(ケ)を、アメノウズメが踊る煽情的なダンスによって取り戻す祭事だと言われます。アメノウズメは芸能の神様。ポストコロナ社会においても、「密」を生み出し支える大切な手段である芸能を維持することは、人間社会を維持していく上で必要なことだし、むしろ、日常的に「密」の中にあった都市集中の時代よりも、その重要性は増していくのじゃないかな、と思います。

 

遊びをせむとや生まれけむ

戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ

 

と歌った中世日本の人々は、歌いながら子供達と手を取り抱き合って遊んだのじゃないかと思うんだよね。「密」を捨てちゃいけない、守らなきゃって思うんだ。