「世のため人のため」

バンクーバーオリンピックも終盤に差し掛かり、真央ちゃんも堂々の銀メダルで、我が家では女房が昨夜TVに真央ちゃんが出てくる度に泣いておりました。たぶん日本中の娘を持つハハたちは、真央ちゃんを見るたびに母性本能が暴走していたに違いない。

先日NHKで再放送されていた、鈴木明子さんのドキュメンタリーを見ていて、彼女が、「人に勝つ、ということじゃなく、観客を楽しませるために滑りたい」と言っていて、結局そういうことなんだよな、と思いました。スキークロスとか、ショートトラックみたいに、戦う相手がいる競技でもそうなのかもしれない。高い運動能力を持った人たちが、その技術とパワーを振り絞って見せてくれるパフォーマンスはどれも美しいし、見る人に感動を与える。見る人に感動を与えるために、その技術とパワーを磨く。

観客のためにやるわけじゃない、自分のためにやるんだ、と言う人もいますし、結果出せばいいんだから、周りの視線とか気にしない、と言う人もいます。実際、そういう姿勢で競技に臨んで、結果を出している人もいると思います。競技者の心の持ちようにまで踏み込む気はないし、ただの傍観者の評論家的な視点に過ぎないんだけど、でもやっぱり、そういう技術とかパワーを身に着けた人は、それを「人のため」「見る人に感動を与えるため」に使うんだ、と思ってほしいし、そういう意識を持てた人っていうのも、しっかり結果を出してくるんじゃないかな、という気がする。

それって、一種のノブレス・オブリッジなんじゃないかな、という気がするんですよね。人それぞれ、神さまからもらった能力を持っていて、それを一定のルールの中で使った時に、どうしたって優劣は出る。そこでトップレベルの力を発揮できる人、そういう能力を持った人っていうのは、神さまから与えられたその力を「人に感動を与えるため」に使う義務を負うんじゃないかな。

もちろん、それってすごく面倒なことで、「人」っていうのは勝手ですからね。競技以外のところでも色々と文句を言う。その人の生き方そのものにまで口を出すし、服装まで批判の対象になる。その結果、競技者人生そのものを強制終了させられることだってある。

でもそれって、やっぱりノブレス・オブリッジの一環として甘受しなきゃいけないんじゃないかな、という気がするんです。人に感動を与える、与えることができる能力を持った人は、それを最大限発揮するだけじゃなくて、どんな局面にあっても、周囲の人たちを心地よくすることに気を配り続ける義務があるんだ、と思った方がいいんじゃないだろうか。「有名税」というとなんだか重たい義務に聞こえるし、実際面倒くさい話だとは思うんだけど、もっと前向きに考えれば、日常生活からのそういう姿勢、「周りの人を心地よくしてあげよう」「周囲の人に感動を与えよう」っていう生き方っていうのは、競技の結果そのものに対しても決して悪影響を及ぼすものじゃないと思うんだよね。むしろ力をくれるものなんじゃないか、と思う。

「スケート界の未来のために」4回転を飛び続けるプルシェンコ。圧倒的な表現力で会場全体を魅了した高橋大輔鈴木明子キスアンドクライから、「デニスがんばって」と声をかけた小塚崇彦。会場のみんなを笑顔にしたい、とチャップリンを演じた織田信成。天に召された難病の子供のためにレクイエムを踊った安藤美姫。「『鐘』という作品を完成させて、観客を感動させること」を目指して、3回転半を飛び続けた浅田真央。自分自身のために、というのも勿論大事なんだけど、今回のフィギュアを観て、「世のため人のため」っていう意識を持っている人って強いなぁ、と、なんとなく思いました。