「所有せざる人々」〜政治小説であり、多層的世界であり、そして、一個の感動的な物語である〜

先日日記に書いたティプトリーの本を読んで、同じく「男女」ということについて先鋭的に思索し続けているアーシュラ・K・ル・グィンの本を読みたくなる。以前一度読んで、あんまりピンと来なかった「所有せざる人々」が我が家にあったので、再読。中々ピンと来ないのは以前同様なのだけど、前回読んだ時よりは、色んなものがクリアに見えた気がした。

「所有せざる人々」という言葉は、完全共産主義社会として構成されたアナレスという惑星の社会を直接的には意味している。アナレスの双子星のウラスにある、ア・イオ国は、アナレスに対するポジとネガのような形で、資本主義社会、帝国主義的社会として極端に描かれる。結果として、一切の私財の占有を禁じたアナレス社会は、「所有せざる人々」の世界として際立って見えるのだけど、主人公であるシェベックが突き当たるのは、そんなアナレス社会の中にある「所有する人々による壁」。アナレス社会の思想基盤を作り上げたオドーが夢見たのは、「非所有」による完全な自由人の社会だったはずなのに、現実のアナレス社会を覆っているのは、救いがたい停滞感と、自己の権威に拘泥する官僚主義。シェヴェックが挑むのは、自分が確立した「真理」という財を圧殺しようとするアナレスの狭量であり、その財を占有することで宇宙の中で自国の優位性を確保しようとするウラスの狭量。そういう意味で、シェヴェックが歩む道は、ウラスとアナレスという合わせ鏡の間にある、第三の道

最初に読んだ時の違和感は、そういうシェヴェックのたどる道筋がはっきり見えなくて、ル・グィンが示している理想の道が、むしろアナレス側に寄っているのか、と思ってしまったから。ちょうどロシアが崩壊して、共産思想の限界が明確になった時代だったから、アナレス社会の完全共産主義を理想化されても、読者としてはかなり違和感があったんだよね。実際、完全男女平等社会である点や、人間同士の扶助精神を基本としているアナレス社会の描写には、ル・グィンがかなりこの社会に肩入れしている感じがしないでもない。

そういう違和感は、アナレス社会が表面上ユートピアに見える一方で、ル・グィンの目から見たアメリカ社会のカリカチュアともいえるア・イオ国が、極端にディストピア的に描かれていることからも来る。アメリカ社会の中にある資本主義と男尊女卑と覇権主義カリカチュアライズして造型されたア・イオ国の描写は、享楽的で退廃的であり、豊穣の中に潜む醜悪さに充ちている。そういう対比があるものだから、ル・グィンって、共産主義者だったっけ?なんてちょっと邪推してみた結果としての違和感。

ただ、老練な異世界構築者であるル・グィンが、「共産主義者」なんていう簡単なカテゴリーに収まるような、単純な理想主義者であるはずはない。アナレス社会の矛盾を抉り出す描写と、それがゆえに迫害されるシェヴェックとその仲間たちの描写は極めてリアル。結局のところ、完全共産主義社会の中でも地位や権威に拘泥する人間の本性は変わらない、というのがル・グィンの結論で、だからこそ、オドーの唱えた完全な自由を求めるために壁に挑むシェヴェックたちが崇高に見える。

さらに言えば、ル・グィンがアナレス社会、すなわち、オドー主義という一種の限界事例的な思考実験によって描こうとしたものは、「私有」という資本主義社会の基本にある原理から自由になることの困難さ。「私有」から自由になることによって得られる人間性復権。「私有」=資本主義・自由主義の極端な表象として存在しているアメリカ合衆国という国が、一部の富裕層と男性に象徴される特権階級にのみ自由を保障し、貧困層や被差別階級といった弱者の自由を圧迫していることに対する強烈なアンチテーゼ。そのル・グィンの提示したテーマは、グローバリゼーションの名前の下にアメリカイズムが輸出される過程で、激烈なアレルギー反応が全世界で発生している現代において、より先鋭的に立ち現れてくる。

そういう政治的な読み方ももちろんできるのだけど、そういう風刺小説としての見方だけでこの小説を読んでしまうのはあまりに勿体ない。そういう読み方は、ル・グィンが、どの世界を理想としているか=彼女自身の理想の政治体は何なのか、もっと下世話な言い方をすれば、ル・グィン民主党支持者か、共和党支持者か、なんて議論に近い気がする。ル・グィンの描き出す世界がもたらしてくれる知的興奮はそういう政治的メッセージには留まらない。ウラスとアナレスという架空世界と、それを内包したハイニッシュ・ユニバースの確かな存在感。シェヴェックのたどり着いた真理である「同時性原理」自体が、時間という枠組みから個人を解放する原理につながり、シェヴェック自身が選んだ第三の道に重ね絵として見えてくる構成の見事さ。そして何よりも、「私有の否定」という原理を極端に突き詰めたアナレス社会のリアリズム。

「闇の左手」にしてもそうだし、大好きな「ゲド戦記」のシリーズにしてもそうなのだけど、ル・グィンが描き出す物語は、巨大な世界の広がりの中に、たった一人で立ち向かう個人の孤独感が付きまとう。その個人を支える仲間や、協力者が現れないわけじゃないのだけど、実際に協力者が何かをできるわけじゃない。物語を推進していくのはあくまで一人の個人の意思であり、行動である。戦いの意味を知っているのも、その結末を知っているのも、たった一人の個人。その孤高の戦いが、読者を惹きつけてやまない。

たびたび引用されるオドーの著作(すなわち、ル・グィンの創作)で語られる哲学の奥深さ。表面的に語られる物語の奥に、幾重にも幾重にも畳み込まれた多層的物語世界の豊穣さ。やっぱりいつ読んでも、何を読んでも、ル・グィンはすごい。