「ハルモニア」〜究極の音楽〜

篠田節子さんの作品は結構読んでます。「絹の変容」「夏の災厄」「カノン」あたりを読んだかな。基本的にホラー小説家、と思っているのだけど、その枠にはまらないジャンルレスの作家、という認識。先日、NHKの音楽番組に、黒田恭一さんや諏訪内晶子さまと一緒に出演されているのを見て、この人の音楽小説を読んでみたくなり、「ハルモニア」を借り出しました。好きな小説、とはちょっといい難いけど、インパクトはある。以下、ネタバレ記述が続くので、未読の方はご注意ください。

ハルモニア」を、知的障害者でありながら天才的な音楽的才能を見せる浅羽由希と、そのチェロの指導を行う東野秀行の恋愛小説、と受け止めてしまうと、多分本質を見失う。東野は、由希が至高の音楽に近づいていくにつれて彼女の精神と身体が壊れていくことを知りながら、無理やり彼女を至高の音楽の高みに連れて行こうとする。それは、東野自身も独白しているように、恋愛感情からは遠いもの。これは恋愛小説として書かれたのではなくて、純粋に、至高の音楽ハルモニアを目指す人間たちの無謀な試みと、その悲劇を描こうとした小説、と捉えた方がいい。

篠田さんの「カノン」の中でも既に描かれていたのだけど、篠田さんにとって、究極の音楽は、完璧な数理的な秩序を持ったバッハの世界にある。その世界は、畏敬と憧憬の対象として描かれるのだけど、逆に、触れてはいけない、触れた人間を壊してしまう恐るべき世界として描かれる。それに触れようとする人間は、由希のように、「人間であることを止める」しかない。彼女を巡る各種の超現象や悲劇的な結末は、バッハが垣間見、楽譜に残した音楽が、まさしく神の音楽であって、その完璧な実現は、人間が触れられない、触れてはいけない境地である、という篠田さんの認識を、そのまま物語にしているように思います。

音楽には別のアプローチもあって、完璧な秩序を持った神の音楽の世界を、人間の世界に引きずり下ろすことで、新たな感動を生み出すこともできる。その種のアプローチは本書の中で、ルー・メイ・ネイソンという別の天才チェリストのアプローチとして象徴的に描かれる。由希はそのルー・メイ・ネイソンの奏法を完璧にコピーしてしまうのだけど、その奏法も、極めて魅力的なものとして描かれ、ルー・メイ・ネイソンは一種のカリスマとして描かれる。でも、篠田さんは、「自分はそういう音楽を、究極の音楽とは認めない」と明確に主張する。東野が由希を使って追い求めようとする究極の音楽は、あくまでも神の領域にあるのです。

ルー・メイ・ネイソンが、薬物中毒になり、スキャンダラスにその生涯を終える、という描写には、神を冒涜したものに対する罰、という解釈も可能。でも私は、彼女は彼女なりに、「神の音楽」に触れ続けることで、由希と同じように自分自身を壊してしまった結果、と受け止めました。神の世界にあった火を人間界にもたらしたプロメテウスが、鎖につながれ、毎日ハゲタカに内臓をむさぼり食われたように、ルー・メイ・ネイソンは、神の音楽を人間界に運ぶことで、自分自身の精神を蝕まれてしまった。

こういう、究極の芸術、究極の美を追い求めることで破滅していく人間、というテーマ自体は、芥川龍之介の「地獄変」から、延々と書き続けられてきたテーマで、ゴッホなんてのはそういうテーマで何度も題材にされていると思います。音楽の世界では、バッハやモーツァルトがそういうネタに使われやすいよね。そういう点では、ある意味、極めて古典的な題材ではあるのだけど、そこに、「サヴァン症候群」(脳に欠陥を持つ人が、別の驚異的な能力を身につけるケースのこと)という、「人を超えた人」を持ち込んだところが面白い。加えて、ご自身もチェロを弾かれる、という、篠田さんの音楽に対する豊かな知識と、バッハの音楽に対する強い愛着が、この物語の魅力かな、と思いました。

ただ、篠田さんの文章っていうのはかなりゴツゴツした文章で、ストーリ展開もかなり強引なんですね。決して名文家とはいえないと思う。同じ時に読んだのが、幸田文さんの明治の端整な文体と、重松清さんの名人芸的な美文の小説だったので、余計に篠田さんの文章の下手さ(すみません)が際立ってしまった。でも、篠田さんの小説の魅力は文体にあるわけじゃなくって、そこに描かれる題材の今日性と、その題材を究極まで突き詰めていこうとするパワーにあると思っています。今から振り返ってみても、デビュー作の「絹の変容」は、花粉症をはじめとする各種のアレルギー症候群の蔓延と恐怖を、黙示録的に予言していたし、「夏の災厄」も、地球温暖化で流行が懸念されている各種の熱帯性伝染病の恐怖を、バイオ兵器の恐怖と結びつけた予言的な作品でした。

一部のネット評論を見ると、本作品と「エヴァンゲリオン」の共通性に言及するものが多くて、言われてみればそういう側面もあるかな、と。主人公の東野秀行が、エヴァの監督、庵野秀明を意識している、とか、感情を持たず、時に「暴走」する由希の描写に、綾波レイの姿を重ねる向きも。本作が発表された時期とエヴァ現象の時期が重なるので、一種の時代感覚として共有しているものがあるのかもしれない、程度に思っておけばいい気がしますけどね。

究極の音楽=神の秩序=ハルモニア、を追求することこそが、音楽芸術の一つの到達点だ、という意見には、それなりに賛成するし、そういうアプローチを続けている音楽家は沢山いると思います。でも個人的には、音楽ってのはもっと人間的なもので、美味しい食事をして嬉しい、とか、綺麗な景色を見て嬉しい、といった生活の中の喜びを、人に伝えるための言葉以外の伝達手段、というのが一番近い気がしています。数理的な完璧な秩序感、というのも、確かに美しいし気持ちいいんだけど、ひたすらそればっかりを追い求めるのって、ちょっと違う気がするんだけどね。聴衆不在の音楽、というか。こういうところもひょっとして「エヴァンゲリオン」っぽかったりするか?視聴者不在で暴走するあたりとか。