「スター・ウォーズ エピソード3」〜完結編の充足感〜

GW中、撮りためてあった映画などもまとめて見ました。「スター・ウォーズ エピソード3」と、「指輪物語」。後者の方は、やっと3部作の第一部を見終えたところで、残り2作はいつ見られるか分からないので、見終わったところで別途感想を書きます。今日は、「スター・ウォーズ」の方を。

我々の世代の精神に大きな影響を与えた映像作品といえば、幼少時は「ウルトラマン」シリーズ、小学生の高学年になって「宇宙戦艦ヤマト」、中学生くらいになって「機動戦士ガンダム」と、「スター・ウォーズ」、という感じかな、と思います。「スター・ウォーズ」が当時中学生だった我々に与えた影響ってのは本当に大きかった。それは何よりも、宇宙空間でのスピード感あふれる戦闘シーンが、当時の最先端の特撮技術によってリアルに表現されたことへの興奮だったと思います。

逆に言えば、映画の第一作として製作された「スター・ウォーズ エピソード4」は、物語としては極めてオーソドックスでシンプルな「囚われたお姫様救出」冒険物語でした。黒澤明の「隠し砦の三悪人」をベースにしたストーリは、ハラハラドキドキに充ちていて、ハリウッド映画的興奮がてんこ盛りではあるけど、わりとさらっとしたエンターテイメント、という感じ。そういう傾向は、「エピソード5」「エピソード6」と進むにつれてさらに強くなってきて、「エピソード6」に至ってはほとんど子供向けの遊園地ムービーと化してしまう。親子の絆を描いた「エピソード5」は、多少なり暗いトーンを持ってはいるのだけど、興味の中心はやっぱり戦闘シーンだったり、アステロイドベルトのチェイスシーンだったりした。要するに、「特撮映画」のカテゴリーから逃れていない感じでした。

映画としては、あくまで「特撮SF映画」のカテゴリーの中から出ていなかった「スター・ウォーズ」シリーズを、「スター・ウォーズ・サーガ」とまで言われるような神話的な広がりを持った世界に育てていったのは、ジョージ・ルーカスの当初の構想の壮大さももちろん大きかったけど、その「小出し」戦略の賜物のような気もする。随分うがった見方かもしれないけどね。

当初から、「全9部に分かれた壮大なファンタジーの一部」と言われながら、その全容については(いまだに)情報が十分とはいえない。そういう「情報飢餓」の状態に観客を置いた上で、少しずつその姿を見せていく「小出し」マーケティング。観客は、「アナキンはどうしてダース・ベイダーになったのか」「レイア姫とルークはどのような経緯で誕生したのか」「オビ・ワンは?」「ヨーダは?」「皇帝は?」という大量の疑問符を抱かざるを得ない状態のまま、何年もの間放置される。長い飢餓状態を経て発表された「エピソード1〜3」を見て、映画的な充実感と飢餓状態の充足感のどちらが大きいでしょう・・・と言われると、そこにちょっと疑問符がついてしまうのは、そういうマーケティングが透けて見えるせいもある。

もちろん、熟練の映画監督であるジョージ・ルーカスは、悲劇のアンチ・ヒーローとしてのダース・ベイダーを描き切って、映画としても十分に見ごたえのあるドラマを作り上げている。CG技術の進化に伴って、「エピソード6」のお祭り騒ぎをさらにスケールアップしただけ、という感じもした「エピソード1」と比べると、全然ドラマの厚みが違う。ここにさらに、「スター・ウォーズ・サーガ」の壮大な世界観が加わって、充実感はさらにアップする。

何より、「エピソード3」の見所は、ヘイデン・クリステンセンという役者さんのアンチ・ヒーローぶり。クリストファー・リーよりもよっぽど怖くて凄みがある「キレた」演技。ユアン・マクレガーのオビ・ワンの苦悩に充ちた表情も泣かせる。パドメのナタリー・ポートマンは、「エピソード1」の時の方がよかったなぁ。「エピソード4」で観客の度肝を抜いた、タトゥウィーンの2つの太陽の映像が、将来の希望を背負ったルークとレイア姫という二人を象徴する、というラストシーンも、ジョージ・ルーカスのこの「サーガ」にこめた思いが伝わってきてよかった。

と、少しほめておきながら、最終的には、「やっぱり『エピソード4』が面白かったなぁ」になっちゃうんですけどね。その最大の理由は、発達したCG画面とそれによってリアルに描かれる圧倒的な戦闘シーンのせいだったりする。なんでも描けるようになってしまったせいで、逆に何を描きたいのか分からなくなってしまっている感じ。情報量が多すぎて、どこに注目していいのか分からない。溶岩流の上でアクロバティックに展開されるラストの決闘シーンも、アクロバティックすぎて、一体どこにクライマックスがあるのか分からない。「あれ、これで終わりなの?」みたいな感じがしちゃう。こういう映画を撮りたかった、という気持ちは分かるんだけど、やりたい放題やっちゃうとかえって作品としての質が下がってしまう・・・という感じかなぁ。

同じように恐ろしく情報量の多い画面を作っていても、描きたい対象が逆に浮かび上がってくるようなリドリー・スコット的手法とはかなり違う。人間、限定されたり抑制された中で作っていくものの方が、結局クオリティが高かったりするのかもしれないよねぇ。同じように圧倒的なCGの物量画面が凄まじい「指輪物語」を見ながら、女房が、「畳の部屋にちゃぶ台おいて、おじいちゃんが独りでぼそっと呟いているっていうだけの映画じゃダメなのかねぇ」と呟きました。作り手によっては、そういう画面の方がよっぽど重量感があったりするんだよねぇ。