性というタブー

今回は割と特定の人物を罵倒するモードに入っているので、読む方によっては不愉快に思われるかもしれませんが、なにとぞご容赦を。

大阪市長という人は「行列のできる法律事務所」に出ていた頃から大嫌いだったんだけど、大阪という別の毒が回った街を改革するには必要な毒なのかな、と、多少「必要悪」的に見ていました。しかし今回の風俗関連の発言は、この人の知的レベルの低さと品格のなさを露骨に表していて、一刻も早く表舞台から去って欲しい、という思いが募る。官僚と自民党の悪口並べて反省しない民主党の元総理大臣を見る時と同じような不快感。それにしても、性という、それぞれの民族が最も繊細に扱っているものに土足で踏み込む無神経さには開いた口がふさがらない。まぁもっと無神経な隣国が先にそれを旗印にして、世界中に慰安婦記念碑を建てまくっている、という状況もふざけるなとは思うけど、同じレベルで子供の喧嘩始めちゃいかんだろう。

大学の頃、東南アジアの政治学を勉強していた時、東南アジアのまだ文明化が進んでいない村にフィールド調査に行った教授が、「もう12歳くらいの初潮迎えたばっかりの女の子が、とにかく暇さえあればSEXばっかりしてるんです。嫌になりますよ」と言っていたことがあります。他にやることがないんだね。他の娯楽があるわけでもないし、それを縛るルールやモラルも未発達だから。知り合いの方が、「義務教育というのは、一定の年齢になるまで自由にSEXをすることを制限する仕組みである」という誰かの意見を紹介していたことがあって、なるほどなーと思ったことがある。SEXというのは社会構造を根底から破壊することができるがゆえに、人間の生物的な原罪の一つで、だからこそ、キリスト教モーゼの十戒に、「汝姦淫するなかれ」という項目を置いた。この原始の欲求とルールの間の葛藤が、宗教をはじめとする数々の民族の基本的タブーを構成しているわけで、そのタブーに無神経に踏み込む人には、グローバル感覚もダイバシティへの配慮のかけらもない。日本民族の閉鎖性と文化的未熟さを露呈した、と言われても仕方がない。

全ての世の中のルールが、戦争でさえも、一つの民族が一方的に強姦されて生物学的に抹殺されることがないように組み上げられたものではないか、ということを端的に言い切ったのが、太宰治。「戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。」(「斜陽」)この文章は強烈だったね。多分、あの大阪の馬鹿は読んだことないんじゃないかと思うけど。どうでもいいけど、あんなに頭悪くても弁護士になれるんだとしたら、日本の司法試験制度は一体何を試験しているんだ。

自らの遺伝子を少しでも多く残したい、という生物学的欲求が、必然的に多淫の行動につながることを抑制するのが、数々の社会的ルールであるとするなら、芸術は、SEXのもたらすオーガズムの代替としてのエクスタシーをもたらすものと言えなくはない。性的欲求を抑制する仕組みとしての社会的規律と、その欲求を昇華する仕組みとしての文化や芸術。成熟した社会というのは、ルールの成熟だけでなく、文化の成熟も伴っているもの。随分昔のバブル期に、文化人としてあか抜けない日本人成金たちが、大挙して東南アジアに買春ツアーに出かけて顰蹙を買ったのも、SEX以外の精神の昇華方法を知らない精神的未熟児の行動パターンだし、今回の大阪の馬鹿の発言とも通じるものがあるよね。

ガレリア座も一部を取り上げた、ワーグナーの「タンホイザー」に対して、大野和士さんが、「これはまさに、『汝姦淫するなかれ』というキリスト教のタブーとエロスの葛藤の物語なんです」とおっしゃっていたことがあって、さすがだなぁ、と思ったことがある。実は大阪の地というのは、社会的ルールとエロスの葛藤の中で、エロスを貫いて滅んでいく男女を美しく描き切った、近松門左衛門の心中ものを生み出した土地で、江戸時代という時代はルールと文化が日本で最も成熟した時代だった。だからこそ、幕末の日本は西洋列強の憧れと尊敬を勝ち得たんだと思います。

そういえば、その近松の心中ものを中心とする大阪の伝統芸能文楽」を理解できなかったのも、あの馬鹿だったね。結局そういう精神的未熟児を選挙で選んでしまった大阪人が悪いんだけどねー。とにかく早く退場してくれ。