シャンソン・フランセーズ5〜ぶれない軸、壁を壊す自信〜

一応私もサラリーマンやっておりまして、会社で若い人とかに、もっと新しいことにどんどん挑戦しようよ、なんて偉そうな説教かましたりします。今の若い人は挑戦する気概がない、とか色々言う人はいるけど、前向きにガンガン挑戦してくる子もいる。そういう若者に共通しているのって、妙な自信だったりするんだよね。それって確かに怖いことで、根拠とか地力がないのに自信だけあると、壁にぶつかった時にすごく脆かったりする。でも地力って、壁にぶつかって経験を積まないと身につかない。自分のやっていることは正しい、という自信を持ってぶつかること。反発を受けたら、きちんと自分を見直して、それでも間違ってないと思うなら、信じて進むこと。それを繰り返すことで地力と自信を兼ね備えてきた人のパワーといったら、本当に無敵。

いきなりビジネススクール自己啓発セミナーみたいなこと言ってますが、演奏会の感想文ですよ。昨日拝聴した、ピアニスト田中知子さんプロデュース、シャンソン・フランセーズ。自分のやっていること、やりたいことへの絶対の自信があり、たくさんの挑戦と挫折を経た後の確固たる地力を持った人が、明確なコンセプトと構成力で作り上げたプログラムって、ジャンルの壁とか既成概念を軽々とぶっ壊しちゃうんだなぁ、というのを本当に実感。
 
ソプラノ
大津佐知子
佐橋美起
鐵 京子
富永美樹
中島佳代子
橋本美香
 
メゾソプラノ
田辺いづみ
三橋千鶴
 
バリトン
根岸一郎
和田ひでき
 
アコーディオン
えびさわなおき。
 
ピアノ
田中知子
 
企画・制作・構成
田中知子

 
という布陣でした。
 
シャンソン・フランセーズ、と言いながら、フランス語によるフレンチシャンソンは三曲だけ。あとは、日本語訳詞によるシャンソンと日本歌謡や森山良子のコミックソングまで、まさにジャンルレス。ジャンルレスでありながら、パリの洒落たキャバレーのナイトショウを見ているような気分になるのはなぜだ。都会的とか、エスプリとか、洗練とか、色んな単語を並べてその空気感を表現するのは簡単なんだけどさ。例えば同時期にやっている同じ東京室内歌劇場の「浅草オペラ」の舞台が、いい意味でアジア的な猥雑感を生み出しているのに比べて、シャンソン・フランセーズの舞台にはそういう猥雑感がない。濃厚なんだけどくどくない。ミラーボールも回すはドタバタはあるはガッツリ弾けちゃってるんだけど、やり過ぎ感がない。やり切ってるけどやり過ぎない、というのは、演者やプロデューサーがよほど冷静に自分のパフォーマンスや全体の構成バランスを見切らなければできないことで、自分の軸や身の丈を超えたパフォーマンスが過剰感を生じさせてしまうと、それが妙な雑味になるんだよね。ものすごく多様な具材をごったごたに放り込んで煮詰めた末に、黄金の澄み切ったコンソメスープになりました、みたいな潔い感じ。

冒頭に時計のスライドと、時計が刻む音のような切ないアルペジオが響き、時の巡りという全体のテーマが提示されると、冒頭は、恋の熱情や狂騒、初夏の涼やかなパリが描かれる。「ひよっこ」の初恋デートの場面にも出てきた「愛しちゃったのよ」が突然入ってきても、高揚した空気感の中で全く違和感がない。というか、昭和歌謡の中でも、正統派シャンソンとがっつり組みあえる魅力的な楽曲をしっかり選んでくる選曲のセンス。「侯爵夫人、全て順調です」のようなコミックソングも交えて、舞台がすっかり春夏の祝祭的な空気に染まる中でも、そんな華やかさから取り残された地下鉄の切符切りの疎外感も織り込んで、様々な人生模様を掬い取る知子さんの視線の、なんて優しいこと。(そしてこの地下鉄の切符切りの歌が、和田ひできさんの見事なフランス語歌唱で歌われると、これが決してウェットにならないんだなぁ。かなり世をひがんだ歪んだ歌なのに、どこかで諦観というか、ゴダールの「気狂いピエロ」みたいな乾いた感じがする。なので、前半の爽やかな空気感が損なわれない)祝祭的な空気は「恋の奴隷」の全員合唱でなんだかカオス状態に突入、そしてまさかのオチが富士そば。呆然としつつ休憩へ。(一部、見た人にしか分からない記述あり)

すっかり温まった客席を前にして、人生の秋から冬を描き出す第2部になり、舞台はよりドラマティックな展開を見せる。秋の訪れを告げる「枯葉」のメロディーが、アコーディオンで叙情的に歌われるオープニングから、いきなり浮気の果てに旦那が無念の事故死、若い恋人に捨てられたかと思えば、いいのよ私は遠くから輝くあなたを見守るわと涙し、いいえやっぱり行かないでととりすがり、その挙句に毒を煽って無理心中、突如現れた和服の演歌歌手が、それでも生きるのと人生歌い上げて、「ありがとうございましたぁ〜!」と客席に頭を深々と垂れれば、あれもこれもそれも色々あったけどもう全部忘れちゃったわよ、と開き直って、あとは緩やかに年老いた二人で過ごす終末への日々。もう波乱万丈でわけわからないんだけど、演奏会の冒頭で流れた時計のスライドと時計の音のアルペジオが再び流れ、三橋千鶴さんが心にも身体にも浸み入ってくるような歌で「老夫婦」を歌えば、自然に涙腺決壊、そして季節は再び巡るのだと腹の底から納得する。

えびさわなおき。さんの超然としたアコーディオンも勿論、個々の歌い手さんたちの芸域の広さも、この一貫した世界観を支えている。それぞれがしっかり自分の地力とか軸を持っているから、いくらはっちゃけた所までやっても「やりすぎ感」が出ないんだなぁ、と思いながら聞きました。「霧笛」の真っ直ぐな狂乱から「Ale Ale Ale」に突っ込める田辺いづみさんの振れ幅、演歌歌手から18歳の彼まで演じつつ「ラ ノヴィア」の正統をしっかり聞かせる橋本美香さんの振れ幅。中島佳代子さんの美声、佐橋美起さんのゴージャス、鐵京子さんの存在感、富永美樹さんのキュートネス、根岸一郎さんのフランスっぽい声の色、どれをとっても、一つ明確な軸や、何にでも通用する武器を持っている人の強さ、みたいなものを感じました。日本料理でもフレンチでもイタリアンでも、なんでもおいしく料理できる包丁さばきの技術と出汁のレシピを持っているシェフのような。

前回のシャンソン・フランセーズが初参加だった女房どのにとって、練達の歌い手たちの中で、3曲しかないフランス語によるフレンチシャンソンの一曲、それも超スタンダードの「行かないで」を担当したのは相当なプレッシャーだったようで、毎晩のように、ヌムキトパヌムキトパと呪文のように唱え、前日には衣装や髪形、アクセサリーの一つ一つにまで悩み、ギリギリまで煮詰めて煮詰めて作り上げていました。煮詰めた成果が十分客席に届いたのではないかな、と思います。こういう正統派のフレンチシャンソンが原語で歌われることで、「シャンソン・フランセーズ」という企画に一本筋が通る感覚がありました。前半のロリポップぱーぷーメイドも十分弾けていて立派。

様々な壁を軽々と超えて、こういう明確な世界観のあるプログラムを作り上げることができるっていうのは、やっぱり「自分のやりたいこと」が明確にあって、それを貫けば絶対にいいものができる、という自分のセンスに対する自信や、「やりたいこと」を具体的な形にできる自分や歌い手の地力に対する自信や信頼があって、それで初めて成り立つことだと思うんだよね。センスがあっても地力がなければただの背伸びだし、やみくもにやりたいことだけ並べてもただ暑苦しいだけ。そういう絶妙なところを軽やかに飛び越えていく金髪網タイツミニスカートの田中知子さんの、ぶれない軸とそれを支える地力に、改めて、この人に一生ついていこうかしら、と思った夜でした。あなたのももクロリュックの影になってどこまでもついていきます。あ、行かないで。