けせん第九を歌う会演奏会〜第九でつながる輪〜

女房の故郷である岩手県大船渡市には、リアスホールという新しい市民ホールがあります。2008年に落成したこのホールのこけら落としを期に、2007年、大船渡を含めた気仙地域の方達が中心になって、「けせん第九を歌う会」が発足。この会の事務局をやっていた佐藤若子先生という方が、女房が子供の頃に入っていた児童合唱団の指導者、言ってみれば女房を音楽の道に導いた恩師、ということで、遠路はるばる東京から、女房共々、第一回の演奏会を手伝いに来たのでした。その時に触れた水際だった運営の見事さ、大船渡の人たちのおもてなしの温かさは、今でも忘れられない思い出。その時の感激をこのブログに書いたら、地元の東海新報が、その拙文を紙面に取り上げてくれたのでした。自分の文章が新聞に載った、というのも、分不相応な名誉なこと。何とも面映ゆい、でもありがたい気持ちで、活字になった自分の文章を眺めたことを思い出します。

今から思えば、あのイベント以来、大船渡という土地は、女房の実家のある町という以上に、私にとって、もっと身近な温かい場所になったような気がします。それ以前にも、大船渡でサロンコンサートを開いたり、それなりに大船渡の人たちとの交流はあったけど、一つの場を共にし、一つの音楽を共に作る「仲間」として、あんなにたくさんの地元の人たちと一体になった時間はなかった。この2009年の第一回演奏会の成功から、市民の手による音楽イベントとしてこの会が定着し、2011年1月に第二回演奏会が開催された、と聞いた時も、海外赴任で手伝いに行けない身ながら、この活動が継続していることにエールを送りました。そして、その第二回演奏会の直後に、あの震災。

震災の時、頭に浮かんだのは、女房の実家のこと、蔵しっくこんさあとでお世話になった水野酒店のこと、そして、第九の仲間のこと。時が流れ、地元の状況や現状が聞こえてくる。自分でも足を運び、被災地の状況を前に言葉を失う。事務局の若子先生のピアノ教室兼ご自宅は跡形もなく流され、団員の数名も亡くなり、中心メンバーの方も心労で帰らぬ人となった、と聞いた時、もうあの人たちと一緒に舞台に立つことはないのだろう、と思いました。リアスホールは残った。人も残った。でも、もうあの笑顔は戻っては来ないのだろうと。

この夏、女房が、「けせん第九の会が、今年の冬に復活演奏会を企画している」と言ってきた時には耳を疑いました。「手伝いに来てくれないか、と言われたんだけど」と女房が言ったとき、二人してほとんど即決で、「それは行かないとダメだろう」と言っていました。自分たちにできること。前を向いて進んでいる人たちと一緒に、ともに肩を組んで歩く以外に、我々にできることなんかない。合唱団やガレリア座の仲間たちにも声をかけ、二人の有志が参加意思を表明してくれました。12月23日の本番。暮れも押し迫った、まさに第九の季節真っただ中の演奏会。


パンフレット

本番前日22日、女房は別の用事があったので、私とガレリア座の有志2名、3名が先行。一関からバスで大船渡に向かう。12年の3月に深夜バスで大船渡に向かった時に比べると、バスの外の景色はかなり様変わりをしています。しかし被害のひどかった陸前高田の市街地は、まさに復興の土台となる「土地のかさ上げ」工事が着手されたばかり。見渡す限り更地となった旧市街地に、重機が群がり、巨大な方墳のような土台を次々に積み上げている最中。同行していた二人も言葉を失っていました。でも、この光景を、東京の人に見てほしかった。一人でも二人でも、連れてきてよかった、と。3年目を迎えた被災地が、やっと土台を積み上げ始めたばかりだ、というこの現実を、その目にしっかり焼き付けてほしかった。

でも、リアスホールに足を踏み入れ、控室に入った途端、驚くほど温かい、明るい笑顔の集団がいました。北上から、釜石から、高田から、奥州から、雫石から、盛岡から。大船渡を中心とする岩手県下の合唱愛好家たちが一同に会して、なごやかな雰囲気で練習が進みます。北上でも第九の演奏会があり、釜石でも先週、第九の演奏会があったばかりだとか。被災した土地がそれぞれに、第九という一つの音楽でつながり、支えあい助け合って、お互いの演奏会を復活させている。そこには涙はまるでない。合唱指導の千葉久美子さんの指導も、明るく笑顔です。泣いている人なんか一人もいない。みんな前を向いて、翌日の第九の演奏会に向けてどんどん高揚しています。そして以前の通りの、手際のいい運営と、心のこもったおもてなし。話題の端々に津波の話は出るけれど、それでもみんな笑顔です。その笑顔に、なんだか圧倒されてしまう。

そして本番会場の大ホールへ移動。けせん第九の会の最大の財産は、人が集まる場としての「リアスホール」が、津波の被害も受けず無事だったことだと思います。三陸の多くの都市が、市民ホールを含めた音楽イベント用会場を失った中で、リアスホールという場所が残ったことは本当に大きな幸運だったと思う。先鋭的なデザインのリアスホールは、震災の時にも避難所として活躍したそうですが、舞台から見ても美しいホールで、音響もとてもよい。客席と舞台の距離感も近く、歌っていて気持ちのいいホールです。オーケストラは第一回からずっと共演している仙台フィル。指揮は山下一史先生。情熱的なタクト。私の立ち位置は、合唱団のほぼセンター、山下先生の真正面。絶好の位置。


ということでこっそり撮っちゃいました。リハーサル中のひとこま。客席は三陸の磯の岸壁と、椅子の青が波をイメージしています。

練習が終わって、せっかくなので、と、ガレリア座の仲間と大船渡屋台村に出かける。12年の3月に、できたばかりのおおふなと夢商店街に行きましたが、その近辺、大船渡プラザホテルの周辺に、屋台村やプレハブ横丁、という名前で、仮設店舗がたくさん立ち並んでいます。地元のスーパーのMAIYAも仮店舗での営業を再開しており、昔の大船渡駅前は随分イキイキしてきました。屋台村のお店は7人か8人くらいで一杯になるようなこじんまりしたお店ばかりなのだけど、プレハブ横丁で見つけた「魚時不知(ときしらず)」という居酒屋は、ちゃんとテーブル席も何席かある立派な店構え。出されたお料理も地元の海の幸ばかりでこれまた笑顔になる。二種類のソースで味付けされたコロンと太った大船渡の牡蠣のソテーが絶品。


白子の天ぷら、タラの刺身、とにかくうまい。

大船渡駅前は地震地盤沈下を起こし、数多く立ち並んだ仮設店舗のお店たちも、雨が降れば水浸しになってしまうそうで、建物が無事でいち早く再開した大船渡プラザホテルも含め、来年末までに全て立ち退きを求められているのだそうです。そして陸前高田で進んでいるような土地のかさ上げ工事を経て、かさ上げされた土地の上に新しい建物を建てる。気の遠くなるような復興への道のり。

それでも、大船渡の人たちは笑顔です。女房の実家に聞けば、もともと漁師街のこの地方の人たちは、船と自分の腕だけで生計を立ててきた土地柄だから、何もなくてもとにかくまず前に進もう、と思うのだそうです。いずれ立ち退かねばならない、と分かっていても、まずは仮設でもいいから店舗を立ててしまおう。そうすれば人がまた集まってくる。また立ち退けば、その先でまた人を集めればいい。とにかく人が集まれば、そこに何かが生まれるはず。リアスホールに人が集い、笑顔が集っているように。

23日の本番、女房も合流して、いよいよ本番舞台です。


これは本番の日に出たあんころもち。クルミのあんこもおいしいんだよ。あんころもちとおうどんは、お祝いの席に欠かせない「おもてなし」の一品です。

けせん第九の特徴は、合唱団が第一楽章から舞台上の山台に座ってスタンバイすること。この山台が狭くて高い。合唱団は身を寄せ合って、第一楽章からベートーベンの音楽を一聴衆として楽しむことになります。会場はほぼ満席。そして、第一楽章が始まった時、仙台フィルの気迫のこもった音に驚く。

失礼な言い方になるけど、第一回の時に仙台フィルと共演した印象は、全国にたくさんある地方オーケストラの一つ、という域を出ませんでした。それなりに上手なんだけど、日本の上手なオーケストラの営業的な演奏、という域をあまり出ていない気がした。でも、恐らく震災という試練を経て、そして山下先生も含め、被災者の一人となってあの苦難を乗り越えたこのオーケストラは、全く違う表現力を身に着けたのではないかと思います。第九の第一楽章でこんなに涙が出たのは初めて。弦の表現力が半端ない。もともと持っていたプロの技術に、表現するのだ、音楽を届けるのだ、この音楽で、失われた絆を取り戻すのだという気迫が加わった、渾身の演奏。聴衆も思わず、第一楽章のあとに拍手をする。第二楽章のあとにも拍手が起こり、第三楽章と第四楽章はアタッカで、切れ目なく演奏が続く。山下先生は当然のように暗譜で、全身で歌い、時には唸り声を上げてのドラマティックな指揮。

第四楽章で、低弦があのテーマを奏で始めた途端、会場を埋めた客席が、ふわっと笑顔に包まれた気がした。それは私だけの感想ではなくて、終演後のソリストの方も同じようなことをおっしゃっていました。女房もどこかで書いていましたけど、ベートーベンがシラーの詩に対し、冒頭に付け加えた自作の言葉のように。

「おお、友よ、この調べではない!
もっと快い、喜びに満ちた調べに、共に声を合わせよう。」

涙ではない、笑顔に。嘆きではない、歓喜に。前を向くのだ、そして進むのだと。演奏会が終わって、解散式の会場で、山下先生をはじめ、ソリストのみなさん、指導者のみなさん、事務局のみなさん、大船渡市長や北上市長など、たくさんの関係者の方々がご挨拶をされましたが、誰一人として涙は見せなかった。みんながこの第九の歌詞に心から共鳴して歌い、それが、オーケストラにも伝わり、観客の皆さんにも伝わったのだと、心から思いました。


挨拶される山下先生。「もう震災の日の話はやめましょう」とおっしゃっていました。

第三回の演奏会、でも、まだこれは始まりにすぎません。これからこの活動を再び続けていくには、また新しい困難が待ち構えている。街は再び更地になり、生まれ変わって新しい街が生まれる。壊す悲しみ、乗り越える苦労よりも、生み出す喜びを、集う喜びを分かち合うことができれば。音楽に携わる者の一人として、大船渡の仲間を、音楽で支えていくことができれば、そしてその音楽が、人と人とを結ぶ力に、輪になってくれれば。第九でつながっている仲間の一人として、これからも大船渡のみなさんを応援していきたいと思います。また一緒に歌う日まで、どうか皆様お元気で。