大船渡に行ってきました(その2)〜竹駒神社へ〜

大船渡紀行、その2です。盛町に着いてからの足取りです。

盛町に着いて、バス停の近くの女房の実家に立ち寄り、朝食を取りながら色々と話を聞く。ちょうど様子を見に来ていた義姉が、車を運転してくれることになり、義父母と4人で、まずは盛川に沿って海に向かって南下。

津波は盛川もさかのぼってきたのですが、盛川の堤防を超えることはなかったそうで、それが盛町の被害を小さくした一因だったようです。実際、後から訪れた陸前高田では、気仙川をさかのぼった津波が川の堤防を越えて街を飲み込んでいました。それでも、盛駅から少し海側に行き、大船渡市民体育館や大船渡婦人会館あたりに行くと、1階部分が破壊されたままの建物がいくつも並び始める。体育館の近くを通る南リアス線は、レール自体が地面からはぎ取られて線路の跡も残っていない。

大船渡駅前で営業再開した大船渡プラザホテルの前を通りましたが、周辺に広がるのはどこまでも続く更地と、陸前高田にもあった、破壊された建物たちです。大船渡プラザホテルは、蔵しっくこんさーとの時に出演者みんなで美味しい夕飯をいただいた素敵なホテルだったので、頑張ってほしいとは思うけれど、この中でホテルとして営業を続けていくのはしんどいだろうなぁ、と思う。

大船渡の市街地を抜けて、山沿いの浜磯街道という道から、さらに山側の45号線という高速道路に入ります。高速道路ができた当初は、道路行政の無駄の象徴、とかさんざ悪口を言われたらしいけど、浜磯街道が津波で破壊された後、沿岸の幹線道路になって大活躍しているそうです。同じく箱モノ行政という批判もあった大船渡市民文化会館「リアスホール」が避難所として活躍し、今や全国からくるボランティアイベントが引きを切らない、なんて聞くと、無駄な公共投資は如何なものか、と思いながらも、無駄を許容できる社会では、いつか無駄が活かせる時もくる、なんて思います。

陸前高田で降りる道路の降り口は、以前の高速道路のインターチェンジ津波で破壊され、傾いたコンクリートの高架脚だけが残っています。新しい仮のインターチェンジを降りて、陸前高田の街に入る。バスの窓から垣間見た海沿いの道には、巨大な土嚢が積み上げられ、満潮の度に浸水していた道を守っています。義姉は、「以前の目印が全部なくなっているから、どこで曲がればいいか分からないよ」と言いながら、竹駒神社に向かう道をたどりました。

竹駒神社は、大船渡で生まれた娘のお宮参りをした神社です。奥州藤原氏の黄金文化を支えた金山があったと言われる歴史のある神社で、大船渡線の竹駒駅前にある大鳥居から、山の中の本殿まで1.5キロの長い坂を上ります。竹駒神社は山の神社、という認識があったので、この大鳥居が津波で倒れた、と聞いた時には信じられなかった。

竹駒神社自体は、津波の被害をまぬかれたものの、地震の揺れで古い鳥居が倒れ、本殿の裏にあったお神輿小屋が倒壊。幸いお神輿は無事だったそうです。古い本殿が無事だったのが信じられないくらい。


5基あった鳥居は3基になっていました。黒い足だけが残っています。

参拝を済ませて、再び竹駒駅前に戻ると、目の前に広がっている光景に茫然とする。


手前は竹駒駅のホームです。遠く、あの一本松が見え、向うに広がるのは、海です。

人の背丈を超える住宅が立ち並ぶことによって、人の目から隠されていた地形の姿がはっきり見えて、そうか、竹駒は山の奥といいながら、海が見える場所だったのだ、と思い至る。住宅が人の目をだましていただけで、巨大な津波が全ての建物をはぎ取ってしまえば、そこにあるのは自然の地形なのだと。

高田松原をなぎ倒し、陸前高田のたくさんの建物と命と生活を地面から引きはがして、がれきの塊になった泥水が、川をさかのぼり、左右に迫った山肌にさらに勢いを増してこの竹駒駅までなだれ込み、大鳥居を吹き飛ばした。上の写真は、その道筋です。遠く輝く海から、真っ黒な水の壁が押し寄せてくる様子が浮かんで、腹の底から震えが来ました。今回の大船渡行きで、もっとも衝撃を受けた光景です。


大船渡線の線路は跡形もなく、ここが竹駒駅であったことを示すのは、プラットホームに残った白線だけです。