いろいろと慌ただしく過ごしています

残り少なくなった米国での生活、悔いのないように、と思ってみれば、あそこもまだ行っていない、ここもまだ行っていない、と、リストアップされる場所がいくつも出てきます。残りの週末ごとにそういう場所に行く計画を立てて、現在粛々と消化中。

振り返ってみれば、ニュージャージという場所は本当に住みよい場所でした。世界レベルのエンターテイメントが集まるマンハッタンにほど近く、少し西に行けば豊かな自然があり、買い物などの便もよい。田舎暮らしをするほどのサバイバル力はなく、都会暮らしもせわしなくて疲れる、という、ちょっと軟弱な我々家族には、実にしっくりくる場所。そう思うと、日本での我々の住まいである、調布、という町も、適度に田舎で適度に都会。そういうバランスがいいんだな。

米国暮らしの気楽さ、というのは、よく言われる話ではあるけれど、いろんな人を受け入れる許容量の広さ。誰がどこで何をやっていても許される。自分がどんなことをやっていても、別に人目を気にする必要がない気楽さ。

先日、NYMCがやっている街角チャリティーイベントで、せっかくだから、と着物を着て行ったことがあります。グランドセントラルの玄関でみんなで歌ったのですけど、着物姿でマンハッタンの中を闊歩していても、誰も振り返ったり指さしたりしない。実際、もっとキテレツな恰好でうろうろしている連中がいっぱいいあるから、誰も別に気にしない。日本なんかだと、ちょっととんがった格好をすることにすごく抵抗感があるし、そういう「人と違うことをする」という行為自体が、一種の踏み絵になっていて、自分は他人と違うんだ、という自己アピールをする人であるか、そうでないか、という境界になる。

要するに、日本では、「人と違うことをする」ことに別の意味づけがある。それは、「人と違うことができる」という価値であったり、「人と違うことしかできない」というマイナスの価値であったり、「人と違うことをする自分」に対する自己陶酔であったり、いろんな意味を生み出す。でも、このアメリカでは、人と違うことが当たり前で、人と同じことをすることの方が特別なんです。

それはある意味気楽なんだけど、ある意味確かに不安だし、怖いし、迷惑なこともあります。先日も、地下鉄に乗っていたら、隣に座っていたおじいちゃんがいきなりでっかい声で歌いだした。よくある地下鉄内パフォーマンスかな、と思ったら、どうもそうでもないらしい。楽しそうに歌っている。いいんだけど、声がでかくて、それほど上手でもないので、正直うるさい。でも周囲の人は、さほど迷惑がらずに聞いていますし、うるさいとおもったら別の車両に移動していきます。

人と人が過剰に支えあうこともなく、一定の距離を保ちつつ生活している。相手に害意を持っていないことを示すために、積極的に笑顔を見せ、声をかけ、困っている人がいれば手を差し伸べる。自分が人と違うことをすることにも遠慮もないから、自分の主張ややりたいことはしっかりやる。そういう社会で最も大切なことは、Respectです。相手が何をやるか分からない。でも相手のやることをまずRespectして受け入れること。

もちろん、この国にだって色んな陰湿な部分はあります。でも、我々のような異邦人がポン、と飛び込んできて、気楽に生活するには実に住みよい場所でした。土地勘もできたし、できれば時々遊びにきたいなぁ、とか、老後をこういう場所で過ごすのもいいなぁ、なんて思います。