楽しても楽しくないんだよねー

明日から日本に出張。TVジャパンを見ながらパッキング。日本から色々と持ち帰りたいものもあり、なるべくスーツケースを軽くして出かけます。仕事が忙しいのも実際の所なんだけど、海外出張の前には多少睡眠不足の方が、時差ぼけがなくてよかったりする。てなわけで今日も、結構遅くに帰宅して、TVジャパンで先週から始まった「デカワンコ」を見ながら、この日記を書いてます。

TVジャパンを見ていると、節電対策で、シエスタ休暇、なんていう特別休暇をとりいれたお役所が紹介されていました。コメンテーターの人たちが、日本人って仕事を休んで何もしないで楽しむってことができないんだよねー、なんてことを言っていた。まぁ昔からよく言われるありきたりなコメントなんだけど、それを聞きながら、日本人が余暇下手になったのは、楽、という漢字のせいかも、なんて思う。

楽(らく)という言葉と、楽しい、という言葉が同じ漢字をもっているために、力を抜いて、気楽に何もしないでぼんやり時間を過ごすこと=楽しむこと、という誤解が生まれている気がします。英語の「Enjoy」という言葉は、「Joy」という言葉と語源を同じにしているのじゃないか、と思うんですが、「Joy」という言葉からは、単に何もしないでぼんやり過ごす、というよりも、もっと積極的な高揚感をイメージする。日常と違う空間の中で感じる高揚感とか、スポーツから得られる興奮感とか。でも、そういう「Joyful」な状態というのは、決して「楽」な状態ではないのじゃないかな、と。

たとえば休暇を取って長期旅行に行こう、なんて決めたとしたら、それなりの準備が必要だし、自分の知らない世界に飛び込んでいくためのそれなりの精神的ストレスもかかる。逆に、そういうストレスや不安感が、アドレナリンの量を増やして、「ドキドキワクワク」の状態を作る、そういう状態というのを「Joy」というのじゃないかな、と。簡単な例でいえば、マラソンランナーのランナーズハイみたいな。

そうすると、日本語の「楽する」状態とはかなり違うと思うし、もっと積極的にいえば、楽しむためにものすごく努力する、ということだってあると思うんですよね。自分がやっている音楽なんていうのは、楽したら絶対に楽しくありません。さぼってぼんやり日々すごして、練習会場に行ってにこにこ座っていたって楽しくない。事前に楽譜を読み込み、自分なりに表現を研究し、現場に持って行ってまた初めて新しい発見をする、そういう高揚感こそが「楽しい」状態だし、そういう状態を得るためには、努力も必要です。

逆に言うと、一生懸命努力しても十分な楽しみを得られない可能性だってある。ひょっとしたら失敗するかも、というリスクがない完全に安全な状況というのは、逆に高揚感を得られない。「Joy」を得るためには努力も必要だし、リスクも取らないといけない。

日本人が「楽しむ」ことが下手、というのは、楽しむことと楽をすることを混同して、楽しむのに楽しないのはおかしい、努力したりリスクを取ったりするのは本末転倒だろう、なんていう発想から来てるんじゃないかな。楽しむことは決して楽なことじゃない。本気で楽しもうと思ったら、相当な努力が必要。

また音楽の話に戻って、音楽とは、音を楽しむこと、だからもっと気楽に楽しく、なんていうけれど、本気で音楽を楽しもうと思ったら、ものすごく努力が必要です。気楽に楽しめるものじゃない。それなりに基礎の技術をみがかないと、本当に楽しんでいるとはいえない。音楽が趣味です、と言う人たちの中で、のんびり気楽に音楽を楽しんでます、という人がいるとしたら、それは音楽を楽しんでいるのではなくて、音楽をやっている自分に酔っているとか、音楽をネタにみんなで集まっているのが楽しい、とか、何かしら別のことを楽しんでいるのだと思います。それはそれで趣味のあり方なので、否定する気はないんですけど、そういう人たちは、自分は音楽そのものを楽しんでいるのではない、ということをちゃんと自覚したほうがいい。

ここで、話が転回します。女房は日本を発つ直前、ある学習関係の出版社の下請仕事を在宅でこなすようになりました。米国に来たらさすがに仕事は続けられないだろう、と思っていたら、インターネット経由で中学生向け国語の問題集作りの仕事が来着。ネット経由でスカイプしながら仕事をこなしておりました。先月は連日徹夜続き。アメリカまで来たのに環境が変わらん、とぼやいております。グローバルな世の中や。

そこで教えてくれたんだけど、最近の中学校国語の教科書には、古典が少ないんだね。なぜか、高畑勲のアニメ論なんかが教科書に載っていたりする。NHKの合唱コンクールの課題曲でポップスの合唱編曲が取り上げられているような気分になって、非常に不愉快になる。

要するに、子供に大人が媚びている感じが伝わってくるんだね。精神的な伸びしろが大きい子供時代こそ、大人の世界を一杯勉強して、どんどん背伸びしてもらわないといけないはずなのに、子供がとっつきやすい、入り込みやすいように、なんて、「子供にはジブリが人気だから、高畑勲の文章とかいいだろう」なんて選んでいる選者の迎合姿勢が気に入らない。実際、高畑勲は文章を書くプロじゃないから、素人の書いた分かりにくい文章で、「なんでこの文章で問題を作らねばならん」と、女房もぶつぶつ言っていました。

ちゃんと、プロが書いた大人の文章を、苦労しながら読まないとだめだと思うんですよね。そういうところで楽をしてしまうと、後から、本当の文章、本当の国語の素晴らしさを「楽しむ」ことができなくなる。楽しむための努力、苦労を避けて、「入り口を広げて、楽しく国語を学ぼう」なんて言い出すからわけが分からなくなる。「楽しく」というところを「楽して」と言い換えたら、自分の間違いに気がつくと思うんだがなぁ。「楽して国語を学ぼう」って言ったら、なんとなく後ろめたくなるのに、「楽しく国語を学ぼう」と言ったら、なんだかいいことを言っているような気分になっている。本当に国語を楽しもうと思ったら、相当努力しないと楽しめるわけがない。楽した結果は必ず後で返済しないといけない負債になって積み上がってくるんだから。

そうやって、大人に甘やかされて、「楽する」=「楽しむ」という誤解を抱えたまま大人になってしまった子供たちに、本当に人生を楽しむことを実感できるはずもなく、究極の「楽」=引きこもりに逃避していく。それが今の日本の現実じゃないのかなぁ、なんて思います。さて、パッキングを仕上げなければ。