「蒼穹の昴」〜エリートの孤独〜

浅田次郎さんの「王妃の館」がバカバカしくも面白かったので、引き続き、長編に挑戦。「蒼穹の昴」を昨日読了。清朝末期の歴史群像劇に圧倒される。

浅田次郎的人物像、というのが確実にあって、ある意味浪花節的な、純情一本やりの類型的人物像。あ、また、浅田的人物が出てきたぞ、と思うんだけど、そう分かっていても、やっぱりほろりと来てしまう。「王妃の館」の倒産した工場主の夫婦の一途。「蒼穹の昴」の譚嗣同の一途。そして、「蒼穹の昴」の春児の純粋と、「王妃の館」の少年の純粋。

浅田さんは、こういう浪花節的な、ある意味コテコテの「純情」「一途」をきちんと描いて、それが決してリアリティを失わない作家だなぁ、と思います。こんな人、ありえないじゃん、と思わせない。こういう人だっているよなぁ、と思わせる、等身大の人々の真っ直ぐな心情を、これでもかこれでもか、という感じで書き込んでいく。一種暑苦しさもあるんだけど、やっぱり泣かされてしまうんだよね。

「王妃の館」はお笑い系のコテコテお好み焼き風小説、「蒼穹の昴」は堂々たる歴史小説、ということで、全然共通点はないようなんだけど、浅田次郎的描写には共通点が沢山ある。特に共通してるなぁ、と思ったのは、為政者=権力者と言われる人たちの孤独感の描き方。「王妃の館」のルイ14世と、「蒼穹の昴」の西太后の描き方は完全にシンクロする。巨大な権力と富を一身に集めながら、求めているのはただ一人の人間としての「愛」である、という孤独。親としての愛、女としての愛、そういう普通の人間としての当たり前の愛を求めながら、決して満たされない不幸。絶対の権力者として、ありとあらゆるものを手中にしながら、一番求めているものを手にすることのできない孤独。

蒼穹の昴」の終盤、官僚制度の頂点にあって、政治改革を推進しようとして挫折するエリートが、自ら望む「死」を得ることができず、生き延びねばならない苦悩を語るシーンがあります。選ばれたものだからこそ、優れたものとして神から選ばれたものだからこそ、その神からの選択に対して、逃避することは許されない。神が自分を指導者として選んだことを恨んでも仕方ない。選ばれたものとして、富と権力は当然に与えられるべきものだ、と奢り高ぶるのも愚である。選ばれてしまったものは、進んで茨の道を、進んで苦難の道を進まねばならない。それがエリートの宿命である。

ちょいと話はそれます。以前にもこの日記で、東大生であることの「ノブリス・オブリッジ」について書いたことがありましたけど、リーダーになろうとする人は、進んで火中の栗を拾わねばならない、という、ある意味当然の義務が、この国では結構軽視されている気がする。その結果として、義務を怠って与えられた特権を享受するエリートたちに対し、日本のマスコミのバッシングが続く。そして、ホンモノの「ノブリス・オブリッジ」を持ち、あえて火中の栗を拾い、必死に先頭を走っている人に対しても、同じようなバッシングが加えられていないかしら。そういうバッシングが、先頭に立つ人々のやる気を削ぎ、怠惰な官僚を生む悪循環に陥ってないか?

東京大学卒業、という高学歴を得て、官僚になることが、「最高の幸福」であると思ったら大間違い。本当のエリートであり、常にリーダーであるためには、自らを戒め、強く律し、自分を磨き続ける極めてストイックな生き方を自分に強制しなければならない。それは確かにそうなんだけど、だからといって、本当にそういうストイックな激しい生き方を必死にしている人が、当然の権利として得ている報酬に対してまで、バッシングを加えることはないんじゃないかなぁ、とも思うんですがね。福井日銀総裁が、株だの村上ファンドへの投資だので、3億円くらいの金融資産を持っていた、なんて話が出てるけど、彼はきっと、それで稼いだお金使うヒマもないくらいに死に物狂いで仕事してると思うぞ。年収だって、日本経済を支えている彼の仕事から見れば、たいしたもんじゃないじゃない。それでも、日本のマスコミは、「年金額が高い」だのなんだのと攻撃してくる。日本の国というのはどうしてこんなに、エリートとか、お金持ちに対して攻撃的なんだろう。もちろん、「ノーパンしゃぶしゃぶ」だの、ストイックとは程遠い、義務の見返りの利益ばっかり追求する堕ちた官僚たちが、悪しき前例を積み重ねた結果ではあるけど、それにしても悪循環だよなぁ。

話はもどって、「蒼穹の昴」。浅田次郎の小説の一つの共通のテーマは、自ら与えられた宿命や、他者から与えられた愛情に対して、ひたすら真摯に生きようとする人間の純情である、と言えるのじゃないかな、と思っています。そういう浅田次郎さんの視点から描かれる、ルイ14世西太后は、権力の頂点にあっても、その権力を宿命としてひたすら自己犠牲に生きる人間像として造型されます。そんな彼らの姿がどれほど史実に沿っているかは別として、浅田小説の中で真っ直ぐに生きる彼らは、実にリアルな存在感と感動を伴って、我々自身の生き方の誠実さを問うてくる。

科挙のプロセスや、紫禁城の内部描写など、執拗さすら感じる緻密な時代考証清朝末期という、世界最大の帝国の断末魔にあって、天命から見放されながらも、ひたすら「真摯に生きた」人々の群像劇。ラストシーンに向かうカタルシスが少し弱い気はするのですが、ずっしりとした読後感のある長編でした。文庫本3冊以上の長編っていうのはなかなか手が出ないのだけど、たまにはいいもんだなぁ。