「クララ・シューマン 女の愛と芸術の生涯」〜星崎波津子と比べてみると〜

兄が書いた本に、「九鬼と天心 明治のドン・ジュアンたち」という本があり、そこで、岡倉天心と九鬼隆一と、九鬼夫人である九鬼波津子(後に離婚して星崎波津子)の泥沼の三角関係のことが描かれていました。この三角関係は、結果的に、波津子の発狂、という悲劇を産み、天心の美術学校放逐といった社会的な波紋まで産んだ、明治期の一大スキャンダルとなる。

それでふと思い立って、クララ・シューマンのことを詳しく知りたくなり、先日、「クララ・シューマン 女の愛と芸術の生涯」(ナンシー・B・ライク著)を読了。徹底的なデータ分析に基づいた極めて学術的な本ですが、客観的な分析の中から、クララ・シューマンという女性のリアルな人間像が浮かび上がってくる、非常に面白い本でした。

九鬼と天心から、クララ・シューマンにたどりついた、というのは、ご存知の通り、クララ・シューマンブラームスロベルト・シューマンの三角関係と、ロベルト・シューマンの発狂、という悲劇が、九鬼と天心と波津子の相似形に見えたから。しかし、この東西2つの悲劇の三角形は、外見的には若干似通っているものの、中身を見てみれば全く異なった様相を見せている。

2つの三角形の最も大きな相違点は、3人の性的な関係と互いへの執着の深さにある気がしています。それは、クララとブラームスの男女としての思いの絆が、ロベルトが発狂して後に大きく育まれたという事実・・・つまり、実態として、三人の間に三角関係の緊張感が存在しなかったことが大きい気がする。クララは、ロベルトという存在に縛られることで、ブラームスを夫にはできなかった。でも実質的に、ロベルトの発狂後、クララとブラームスは、ほとんど夫婦同然、あるいは夫婦以上に精神的なパートナーとしてお互いを支えあうことができた。結果として、ロベルトの発狂という悲劇に見舞われながらも、クララという女性の生涯は、非常に充足したものとして我々には見える。芸術的才能と興行的才能に恵まれ、常にそれを支えてくれるパートナーにも恵まれた人生。

一方で、波津子の生涯は悲惨を極めます。九鬼に縛られ、天心に執着し、天心の妻と泥沼の対立(波津子は、天心の妻の面前で、いきなり自分の髪をはさみでジョキジョキ切り、尼姿になって謝罪する、という凄まじい愁嘆場を演じる)を繰り広げ、発狂という最悪の結果に至り、長期にわたって精神病院に幽閉され、人知れず死に至る。この波津子の悲劇は、天心や九鬼の生涯にも、最後まで暗い影を落とし続ける。

クララが優れたピアニストとして高名を得るのに比べ、波津子の生涯はまさに、日本的情念の世界で妄執の炎に焼かれる「生き地獄」の様相を呈する。そういう意味で、この2つの三角関係を並べること自体、あまり意味がないなぁ、と思ってはいます。ある程度、日本的男女関係と、西欧的男女関係、というのを比較して論じることはできるかもしれないけどね。性、というものに対する倫理感の相違、というか。クララが、ブラームスとのプラトニックな関係を維持できた背景に、プロテスタンティズムに裏打ちされた強固な倫理観を見ることができる気もするし、波津子の破滅に、日本的な性の自由と社会的体裁という「恥の論理」の対立の結果を見ることはできる気もする。それにしても、この二人の女性像はちょっとかけ離れ過ぎている。

クララは、自立した女性像、ということで、フェミニズムの観点からも注目されているようですが、波津子という存在は、男性から自立できない女性が、九鬼と天心という強烈な個性と才能の狭間で破滅していく姿、として、フェミニズム的には、一種の反面教師として映ります。それでも、この波津子の生涯、というのは下手な三文ドラマが色を失うほどに、恋に狂う女の凄まじい怨念に満ちていて、どこかしら惹きつけられるものがある。とはいえ、ここまですごいと、映画やドラマにもなりようがないんだよなぁ。クララくらい安定していると映画にもなるんだろうけどなぁ。