物語が呼応するところに感動があって

久しぶりの投稿でございます。

平昌オリンピックが終わって、メダルが取れた選手、取れなかった選手、それぞれが抱えている物語、結果に至るまでの物語が、沢山の感動を呼んでいる。その中で、FACEBOOK友達のKさんが、次のような文章を投稿していて、すごく考えてしまった。
 
以下、引用-------------------
音楽を聴く側は、「物語」を極力排除したい。
音楽を演奏する側は「物語」満載で臨みたい。
でもその物語は音だけで示してもらえばよく、
「言葉で語る」のは最小限にして欲しい。

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こういう、沢山の「連想」を生みだす文章って、いいよね。静かな水面に投げ込む小さな石ころのような、美しい波紋を生み出す文章。すごく沢山のことを考えました。今日はそのことをいくつか。

Kさんの文章は長文で、上に引用したのはほんの一部。他の部分を読むと、音楽を演奏する演奏者自身の持っている物語が、音楽そのものの生み出す感動に与えるバイアスのようなもの(全盲の作曲家の曲に安易に感動してしまう、とか)を、聴き手から極力排除したい、というのが主眼だと思うのだけど、これが本当に難しい。文芸評論の在り方として、作家の実人生から切り離した文芸作品そのものの価値を語ることの難しさに通じるものがあって、聴き手は、目の前にいる演奏家自身が舞台パフォーマンス以外のところで発信する「物語」にどうしても影響されてしまう。そういう「物語」から純粋な音楽だけを切り離すことがどれだけ難しいか。

パフォーマンスそのものの価値と、パフォーマーの属性に対する評価を切り離す、というのは、理想ではあるのだけど、実は不可能に近いことなのかもしれない、なんて思ったりもする。Kさんの文章は、別の観点から見れば、一人のパフォーマーとして「自分の言葉や物語に頼るようなパフォーマンスをするな」というパフォーマ自身の覚悟を問う文章でもあって、いちパフォーマーとしてはすごく大事なことだと思う。でも、聴き手側に、そういう物語を切り離してパフォーマンスそのものを評価しろ、というのは、かなり厳しいことなのかもなぁ、と思う。

それは、最近この日記で書いた、スポーツや芸術の世界における様々な「姉妹」や「家族」の絆の物語に感動してしまう話とも関連していて、浅田舞浅田真央の姉妹の物語、歌舞伎の中村屋成田屋さんの家族の絆の物語、中元日芽香中元すず香の姉妹の物語、そして今回の平昌五輪の高木姉妹の物語のように、パフォーマンスそのものへの感動だけではなくて、その人自身や血や家の絆の物語がもたらす感動から、パフォーマンスを切り離すことがどれだけ難しいか、という話にもつながる。もっと極端な例が、一時期話題になった障害者をめぐる「感動ポルノ」という言葉で、身体障害を乗り越えて健常者と「同等」のパフォーマンスをする障害者をことさらに賛美する風潮への批判だったりしたわけですけど、じゃあ実際に、パラリンピックを見る視線の中から、そういう「障害を乗り越える諦めない精神への感動」を切り離すことって簡単か、と言えば、すごく難しいと思うんだね。それは健常者の競技大会であるオリンピック競技を報じるマスコミの論調にも必ず現れてくる「物語」で、怪我からの復活だの、資金難の中での奮闘だの、五輪選考から脱落した屈辱からのリベンジだの大事な肉親との涙の死別だの、ステレオタイプの物語があふれている。そういう意味で、「感動ポルノ」はそこらじゅうでまき散らされている安易な物語なんです。

そういう安易な物語に安易に感動することにはすごく批判的であるべきだ、とは思うのだけど、聴き手の一人としては、自分の中に様々な「物語」を想起することに対してあまり否定的ではなかったりするんです。大事なことは、聴き手が外から与えられた安易な物語に依存するのではなくて、どれだけ自分の中で、意味と重みを持つリアルな物語を想起するか、であって、聴き手のなかにそういう「物語」をどれだけ生み出せるか、というのは、パフォーマンスの一つの価値なんじゃないかな、と思う。

Kさんの文章を注意深く読むと、「聴き手が排除するべき物語」とKさんが指摘している「物語」は、あくまで「音楽」の外から与えられる外的情報であって、聴き手の中から湧き上がってくる独自の「物語」を排除しているのではない。パフォーマンスに触れた時に生まれる感動というのは、パフォーマーがパフォーマンスに込めた物語と、聴き手の中に湧き上がってくる物語の間のコミュニケーションの結果から生まれてくるものであって、聴き手の中で「物語」を紡ぐことを否定するべきじゃないんじゃないかな、なんて思います。よくある「音楽そのものを楽しもうよ」という薄っぺらい言葉じゃなくて、パフォーマーとして、自分の表現手段にどれだけ自分の持つ多様な物語を注ぎ込めるか、という覚悟と、受け手として、そのパフォーマンスから、どれだけ外的雑音をシャットアウトした、自分自身の独自の物語を紡げるのか、という「聴き手の創造力」のせめぎあいの中で、本当の感動が生まれるのじゃないのか、という、真剣勝負への覚悟を促す言葉のような気がする。

実際のところ、私自身がどういう聴き手か、と言えば、結構パフォーマンス以外の情報に影響されちゃうタイプだと思います。器楽曲じゃなくてオペラのような「物語を語る」音楽、歌い手=演じ手という生身の人間が表現する音楽に関わっているから余計にそうなのかもしれないけど、その物語の背景や作曲家の生涯とか演じ手の人生にかなり影響されながら感動してしまうタイプかもしれない。そういう意味では、純粋に音楽を聴く態度にはかなり欠けてるのかもしれないなぁ。ディミトリー・ホロストフスキーが脳腫瘍の手術から復活した時の「トロヴァトーレ」のライブビューイングでは号泣しちゃったもんねぇ。もちろん、最高のパフォーマンスだったから感動したんだけど、明らかにそれ以上の感動をもたらしたのは、ホロストフスキーの復活をたたえるMETの温かい拍手だった。

もちろん、パフォーマンスする側が、そういうパフォーマンス以外の情報の力を借りるのは反則。自分の中に豊饒な物語世界を幾重にも積み重ねながら、それを言葉ではなく、あくまで「音楽」という自分の表現手段と、それを支えるフィジカルな技術に昇華していくことがパフォーマーの義務であって、それがしっかりできていない、中途半端なパフォーマンスしかできない人が、いくら百万言費やしたところで空虚なだけ。まぁ問題は、そういうパフォーマンス以外の情報に惑わされて、パフォーマンスそのものの質の空虚さに気づかない聴き手が結構いる、ということなんだろうけど。

と言いつつ、自分が今まで聞いたライブパフォーマンスの中で、生涯忘れられない経験になったのは、2004年のウィーンフィルの来日演奏会で、ゲルギエフが振った「悲愴」でした。この演奏会では、冒頭に、「この演奏を、オセチアで発生した小学校占拠テロの犠牲者への追悼として演奏します」という、「音楽以外の言葉」が与えられました。その時の感想文は、この日記に掲載しています。でもこの演奏会以来、どの「悲愴」を聞いても、あのオセチアの悲劇を思い出さずにはいられない。それは私の中に刷り込まれてしまった強固な「物語」で、この物語を凌駕するような別の物語を私自身が紡ぎあげることができない限り、私の生涯に渡って、この音楽について回る物語なんだと思います。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番を聞けば、浅田真央さんの演技が思い出されるように。

そういう鑑賞方法っていうのは、聴き手としてある意味不幸なのかもしれない、とも思いますが、間違いなく一つの鑑賞方法。逆に言えば、パフォーマーは、聴き手が築いてしまった強固な「既成の物語」をいかに打破していくかが挑戦なわけで、その挑戦に百万言を費やすのではなく、パフォーマンスそのものの説得力で打破していかねばならない。それがきっと、クラシック音楽を常に新しくしていく推進力につながるのかもしれないね。