池澤夏樹「静かな大地」・横山秀夫「半落ち」〜落ちが分かっているのに〜

ノルマの本番前から読み進めていた、池澤夏樹「静かな大地」。日本民族が過去に冒した犯罪の中でも最大のものの一つ、ともいえる、「アイヌ抑圧」の告発記でもあるのだけど、タイトル通り、全編が極めて「静か」に進む。その静けさが、声高な抗議の声ではなく、声を持たない自然からの沈黙の抗議として、その自然に寄り添って静かに衰えていったアイヌの悲劇を浮かび上がらせる。

池澤さんらしくない歴史小説なのだけど、全編を流れる通奏低音のいくつかは、明らかに池澤夏樹の世界で奏でられてきたもの。自然と人との交感。硬質で、決して激情に押し流されることのない冷静な視線。でもその視線を注いでいる書き手の思い(池澤さんのお祖母さんにあたる人物である、「由良」に仮託される思いであり、池澤さん自身の思いでもある)は、地底にたぎるマグマのように熱い。

その熱い抗議が思わず迸るのが、アイヌへの深い愛情を生涯持ち続けた江戸時代の探検家、松浦武四郎の文章を紹介する場面。アイヌの血と肉をすする和人の饗宴を悪夢として描き出すその鬼気迫る文章は、武四郎の思いであると同時に、由良の思いであり、アイヌと生涯を共にした三郎や志郎の思いでもあるのだけど、その文章はあくまで第三者の文章として紹介されるだけで、登場人物の思いとしては封印される。封印されるからこそ、逆にその怨念に似た思いがこちらに伝わってくる。

どんなに幸福な日々が描かれていたとしても、最後には悲劇が待っている、というのが分かっている。そして、その悲劇は冒頭から既に読者に提示されている。それでも、物語の前半、遠別の宗形牧場が、アイヌの理想郷となっていく過程では、思わずわくわくと胸躍る思いになる。最後には滅亡が待っていると分かっているのに、義経弁慶主従の活躍にわくわくするのと同じような感情でしょうかね。前半の幸福感や高揚感が大きいだけに、後半の悲劇があまりにも突然で、だからこそ余計に、その悲劇をもたらした、「アイヌ抑圧」という歴史に対する怒りも静かに膨らむ。その構成の見事さ、語り口の美しさ。

ちょうど、「ノルマ」の中で自分が演じていたドルイド教徒、という存在が、欧州においてローマに駆逐された先住民、という、アイヌと似た境遇の民族でした。さらに、自分が小学生の頃、松浦武四郎の伝記や、「ポイヤウンベ物語」などのアイヌの神話に触れた経験もあって、アイヌ民族という存在は、自分にとってそれほど遠い存在ではなかった。そんな親近感も手伝ってか、かなり分厚い文庫本なのだけど、一気に読了しました。自然と人との関わりを問い続ける池澤夏樹のルーツを辿る作品。それでありながら、「与えられる以上に取ってはいけない」というアイヌの知恵が、今日ほど重い意味を持つ時代もない。そういう意味で、極めて今日的なテーマを取り上げた本。
 
もう一冊の感想を。図書館で借りた本を家に置き忘れて、通勤電車で読む本がなくなってしまった日。活字中毒の私としては、とにかく何か読むものが欲しい、ということで、会社の近くの本屋に駆け込んで買ったのが、横山秀夫さんの「半落ち」。これも映画で評判になっていたのを知っていたので、少し前に書いた「黒い家」と同様、寺尾聡さんの顔を思い浮かべながら読む。

実を言うと、後半の章で、最後の落ちが多少予測できてしまったのだけど、それでも、ラストシーンの熱い感動は損なわれませんでした。人間は、他の人間からの支えがなければ生きていけない、という真実を、極めて分かりやすい構図できれいに切り取ってみせた佳作。最後に主人公の手に注がれた思いは、この物語に登場した全ての人々と、そして読者の思いであると素直に思える。

ラストが見えていても感動してしまう、というのは、やっぱりそのラストに向けて、警察・検察・裁判所・刑務所と流れていく日本の刑事裁判にかかるプロセスが極めてリアルに描かれている、そのディテールの細かさのおかげかな、と思います。組織防衛のための醜い思惑が交錯する中で、一人の男の命を巡って、登場人物たちの思いが一つに束ねられていくプロセス。

こう思うと、小説というのは、物語自体の持つ力も勿論なのだけど、文体や全体の構成力=語り口の持つ力というのが大きいなぁ、と改めて思います。最後の落ちが分かっているのに名人芸の語り口に思わず引き込まれてしまう。定番の古典落語を語る落語家の話芸のような。

池澤さんの硬質な語り口にはいつも引き込まれてしまう。初めて読んだ横山さんの文章は、池澤さんとはまるでタイプの違う少年漫画っぽい熱い語り口なのだけど(という感想を持っていたら、横山さんって、漫画の原作も沢山書いているんだね)、お二人に共通するものがある気もする。それは、文章のてらいのなさ。読者に媚びることもなく、自分に酔うこともなく、描き出す対象に対してあくまで淡々とした姿勢を貫く語り口。文章の素晴らしさというのは、読者と、対象と、作家自身の間の絶妙な距離感を維持しているかどうかで決まるのかな、という気がしました。