中野京子さんの本を読んで、「椿姫」のトリヴィア文章を。

うちの娘は、中野京子さんの「怖い絵」シリーズが好きで、中野京子さんの他の本も何冊か持っているのだけど、その中で、「愛と裏切りの作曲家たち」という本が目につき、先日借りて読了。この方は絵画だけじゃなくて欧州音楽にも造詣が深くて、メンデルスゾーンアンデルセンとリンドの三角関係を描いた「芸術家たちの秘めた恋」も面白く読みました。「愛と裏切りの作曲家たち」は、オペラ作曲家とその代表曲の誕生秘話を描いていて、これも大変面白かった。ベッリーニがすごく裏表のある人で、ドニゼッティに異常なまでの対抗心を燃やしていた、というのは初めて知りました。

その中で、ヴェルディの「椿姫」が、彼の二番目の奥様のストレッポーニを重ね合わせた私小説的な作品だ、という文章があって、それがまさに、私が以前企画したサロン・コンサートのテーマでもあったので、やっぱり定説になっているんだなぁ、と思って読みました。このサロン・コンサートでは、レクチャーコンサート風に、ストレッポーニの生涯を重ねる感じで、「椿姫」のハイライトシーンを演奏したのだけど、せっかくなので、その時のナレーション原稿をここに掲載しておこうか、と思い立つ。ちょうど、今度5月14日に、サロン・コンサートの第三弾を上演予定なので、その前宣伝も兼ねて。「椿姫」にまつわるトリヴィア、ということで、お時間のある時にさらっと読んでいただければ幸いです。

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みなさま、本日はご来場ありがとうございます。
 
本日お送りするオペラ「椿姫」ハイライト、企画の裏話から入りますと、私が、「椿姫やりたい!」「パパ・ジェルモン歌いたい!」と騒いで、OさんとKさんを巻き込んだ、というのが、まぁありがちな出発点です。「椿姫」といえば、ヴェルディ中期の大傑作。歌い手としても、一度は挑戦してみたい、けれど大変な難曲です。本日の歌い手三人、背伸びに背伸びを重ねての挑戦になりますが、どうか最後までお付き合いください。
さて、「椿姫」というオペラ、どんな物語か、ここで一度おさらいをしておきましょう。原作は、アレクサンドル・デュマ。パリの高級娼婦、つまり、貴族やブルジョワのお金持ちに金で囲われ、体を売ることで生活している女、ヴィオレッタがこの物語の主人公です。オペラの原題は「ラ・トラヴィアータ」、これはイタリア語で、「道を踏み外した女」という意味ですが、ヴィオレッタはまさにそんな「堕ちた女」です。そのヴィオレッタの前に、純粋な愛を捧げる、田舎出の純朴な青年貴族、アルフレードが現れます。そんな純粋な思いにふさわしい女ではない、と苦悩するヴィオレッタですが、彼の一途な思いにほだされ、二人で田舎に引きこもり、幸せな生活を送ります。ところが、そこにアルフレードの父、ジェルモンが現れ、ヴィオレッタに、身を引くように説得。説き口説かれたヴィオレッタは、アルフレードと別れ、絶望と貧困の中、一人さびしく結核に冒され死んでいく、という、悲しい恋の物語です。
ただ、今日は、このオペラの本筋とは少し離れて、普段とはちょっと違う「椿姫」を聞いていただきたいなぁ、と思っています。もう一人の椿姫、とも言われる、この女性のお話です。(と、チラシを見せる)
 
ジュゼッピーナ・クレリア・マリア・ジョセファ・ストレッポーニ・ヴェルディ・・・フルネームは読むのも難しいので、ここでは、ジュゼッピーナ・ストレッポーニ、あるいは、ジュゼッピーナ、と呼ぶことにします。そう。「椿姫」の作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ奥さんです。
このジュゼッピーナの存在が、椿姫のヴィオレッタの人物造形に影響を与えているのでは、というのは、ヴェルディ研究家の間ではほとんど定説になっているようです。実際色々調べてみると、「椿姫」という作品は、ヴェルディがジュゼッピーナに当てて書いた、一種の私小説のようなものじゃないか、と思えてくるほどなんですね。
そこで今日は、この「もう一人の椿姫」、ジュゼッピーナ・ストレッポーニに焦点を当てて、「椿姫」の名曲を楽しんでいただければと思っています。最後までどうぞよろしくお付き合いください。
 
さて、ジュゼッピーナが初めてヴェルディに出会ったころ、彼女はイタリアオペラ界の頂点にいました。ミラノ音楽院を最優秀で卒業し、すぐにオペラデビュー。スカラ座プリマドンナというソプラノ歌手にとって最高の地位にまで上りつめます。「夢遊病の女」や「愛の妙薬」、「ノルマ」、「清教徒」、「ランメルモールのルチア」などのプリマを次々とこなして高い評価を得ていた彼女は、しかし、私生活では決して幸福とは言えませんでした。
ジュゼッピーナを語る時必ず言われるのが、彼女が恋多き女であり、ヴェルディと出会う前、未婚の状態のままで、複数の男性と肉体関係を持ち、三人とも二人とも言われる私生児を生んでいた、という事実です。子供の父親は、彼女おマネージャのカミッロ・チレッリ、という説もありますし、テノール歌手のモリアーニという説もあります。スカラ座の支配人のメレッリや、ドニゼッティとも関係があった、という人もいます。確かにこの経歴を聞けば、「恋多き女」と言われても仕方ない・・・と思います。
しかし、だからといって、ジュゼッピーナがだらしない女だった、といえるか、というと、そう断言するのもかわいそうな気がします。早くに父親をなくし、五人兄弟の長女だったジュゼッピーナは、家族を養うために、自分を経済的にも精神的にも支えてくれるパトロンを必要としたはずです。19世紀という近代社会にあっても、オペラ歌手という華やかな舞台にいる女性は、どこかで自分の「女」という性を金に換えねばならなかっただろう、ということも、考え合わせてあげないといけないと思います。
しかし、当時一般的だったカトリックの倫理観からすれば、結婚もしていない女が、父親が分からない子供を産む、ということ自体、道徳的に許されないことでした。このタブーを破った女を題材にした有名なオペラがありますよね。そう、「カヴァレリア・ルスティカーナ」です。あのオペラのヒロイン、サントゥッツァは、結婚前に男性と関係を持ったことがばれて教会を破門され、村八分に合います。このようなカトリックの道徳観がいまだに根強かったこの時代、「自分は道を踏み外したのだ」という思いは、ジュゼッピーナの心に大きな罪の意識となって、彼女の生涯を縛ることになります。
イタリアの田舎町から、自作のオペラ楽譜を抱えてやってきた、あか抜けない青年ヴェルディと、ジュゼッピーナが出会った時、オペラ界の中心で華やかに輝いていたジュゼッピーナは、その一方で、「自分は道を踏み外した女である」という罪悪感にさいなまれていました。そんな彼女に、純粋で才能にあふれたヴェルディの熱い視線はどう映ったでしょう。
その時のジュゼッピーナの姿を想像すると、それは、高級娼婦という自分の地位に対する罪の意識にさいなまれ、純朴な青年アルフレードの愛を受け止めることを躊躇する、もう一人の「道を踏み外した女」「ラ・トラヴィアータ」であるヴィオレッタの姿に、不思議なくらい重なって見えてくるのです。
「椿姫」第一幕から、ヴィオレッタのアリア「そは彼の人か〜花から花へ」をお聞きください。
 
「そは彼の人か〜花から花へ」
 
ヴェルディが、「ナブッコ」の大成功によって名声を手にし、「ガレー船の日々」と彼が言うほど仕事に明け暮れていた頃、ジュゼッピーナの声はすでに衰えていました。彼女はパリで声楽教師として暮らし始めます。そのパリにヴェルディは足しげく通うようになり、二人は、互いの愛を深めていくことになります。
しかし、二人は、なかなか、結婚、というステージに踏み込もうとしませんでした。自らの過去に対する負い目のあるジュゼッピーナに対して、ヴェルディ自身も、妻と子供二人という家族の全てを、病気で失ってしまった、という苦い過去がありました。ジュゼッピーナの罪の意識と、ヴェルディ自身の、自分は呪われているのではないかという怯えが、二人を結婚という関係に踏み込ませなかったのではないか、私はそう思います。
マクベス」「群盗」「レニャーノの戦い」などが発表された頃、もともと農民の血が流れているヴェルディは、パリのような都会の生活よりも故郷の田園生活を好み、自分が青年期を過ごしたイタリアの片田舎、プッセートに戻ります。そして、「リゴレット」の作曲にとりかかります。その傍らには、ジュゼッピーナの姿がありました。
この二人の来訪は、古い慣習の残るプッセートの街にセンセーションを巻き起こします。街の名士であるヴェルディが、身持ちの悪い元オペラ歌手の愛人を連れて帰ってきた。死んだ先妻のマルゲリータも、これでは浮かばれまい、と、街の人々は皆ジュゼッピーナを白い目で見ます。ジュゼッピーナが日曜日に教会に行くと、村人はみな目を伏せ、彼女を無視し、街の広場でも彼女に声をかける者はいなかった、といいます。
そんな四面楚歌の状態の中で、ジュゼッピーナはどんな思いでいたでしょう。ヴェルディは仕事に忙しく、不在がちで、彼女は一人家の中で、針のむしろに座っているような状態でした。そんな時、ジュゼッピーナの心の中には、自らの過去の過ちを弾劾し、責め、ヴェルディとの別れを強要しようとする声が聞こえてこなかったでしょうか。「あなたの過去があなたを責めるのだ」「あなたはまだ若く美しい、しかし、時が立てば、男は移り気なものだ、一体どうなると思う?」ヴェルディへの愛から、そんな心の声を必死に否定し、拒絶しても、周囲から浴びせられる冷たい視線と共に、ジュゼッピーナの過去を責めるその声は決して消えなかったのではないか・・・そう思います。
これからお送りする、第二幕の二重唱で、ヴィオレッタは何度も言います。「分かります・・・でもできないのです。彼しか愛することはできないのです」と。その声は、無理解と敵意に囲まれたジュゼッピーナの悲鳴のようにも聞こえるのです。
「椿姫」第二幕から、ヴィオレッタとジェルモンの二重唱をお聞きいただきます。
 
ヴィオレッタとジェルモンの二重唱
 
「椿姫」が、ヴェルディの私生活と重なって見えるのは、ジュゼッピーナとヴィオレッタの類似性だけではありません。アルフレードとジェルモンの親子が衝突したように、ヴェルディ自身も、自分の父親との人間関係に苦しみました。ヴェルディの実の父親であるカルロ・ヴェルディは、息子が買った土地の管理を任されますが、その経営に失敗し、あちこちに借金を作ったり、農園の管理に余計な口を出したりとトラブルばかり引き起こし、ヴェルディの頭痛の種になります。田舎の宿屋の主人に過ぎなかったお父さんにとって、大作曲家の父親、という立場は荷が重すぎたのかもしれません。ジュゼッピーナの仲をお父さんに非難されたヴェルディは激怒し、親子の間はほとんど絶縁状態になってしまいます。
もう一人、ヴェルディにとって実の父親以上に父親らしかったのが、プッセートに住んでいた、先妻マルゲリータのお父さん、アントーニオ・パレッツィでした。ヴェルディはこの義理のお父さんを生涯愛し、尊敬していましたが、やはりジュゼッピーナのことを咎められ、ヴェルディにしては珍しく、激しい怒りをあらわにした手紙を残しています。この手紙の文面は、父ジェルモンに諭されながらも、怒りに身を任せて家を飛び出していくアルフレードの心情に、どこか重なっているように見えてなりません。手紙の一部をご紹介しましょう。
 
「最愛の父上様
 私を不愉快にさせるに過ぎない、とお分かりの手紙を、あなたお一人のお考えでお書きになられたとは思いません。あなたは、他人のことにちょっかいを出したがる悪癖のある街にお住まいですし、街の多数意見に従わない人間を誰かれなく非難する連中がいるのも知っております。
 私の家には、自由で経済的に独立したご婦人がおられます。私のように孤独な生活を好み、彼女に必要な出費は全て自分の財産でまかなうことのできる方です。
 我が家では彼女に一層の敬意を払うべきで、たとえいかなる権限があろうとも、誰もこれに手出しはできません。彼女の振る舞い、豊かな精神、また、他人に対する細かい思いやりある態度からして、彼女は十分に人から尊敬されてしかるべき方なのです。
 あなたを攻撃する気持ちでこの手紙を書いたつもりはありません。私の名誉にかけてでも心から誓います。絶えずあなたのことを、私の恩人と思っています。どうぞご自愛ください。ではまた。変わらぬ友情をあなたに。」
ジェルモンの歌、「プロヴァンスの海と陸」をお送りします。
 
プロヴァンスの海と陸」
 
ジュゼッピーナの晩年、ヴェルディには年若い恋人ができます。テレーザ・シュトルツ、というソプラノ歌手です。当時ヴェルディは55才、シュトルツは35才。ジュゼッピーナはすでに53才になっていました。夫が若い愛人を作ったことにジュゼッピーナは傷つき、ヴェルディに対して激しい非難を浴びせます。しかし、ヴェルディはシュトルツと別れようとはしません。女性としての敗北を認めたジュゼッピーナは、自分のプライドを守るために、シュトルツを家族の一員として、我が家に迎えることを承知するしかありませんでした。まさに、ジェルモンがヴィオレッタに告げた、「男というものは移り気なもの、時が過ぎればいったい何が起こるか・・・」という予言が、ジュゼッピーナの上に実現してしまうのです。
そんな晩年のジュゼッピーナの姿を、愛を失い、愛に飢えながら孤独に死んでいったヴィオレッタの姿に重ねることもできます。ジュゼッピーナもまた、ヴィオレッタのように、悲しい、不幸な最後の日々を過ごしたのでしょうか。ジュゼッピーナの一生は、果たして不幸なものだったのでしょうか。
こればかりは、私には何とも言えません。ただ、ジュゼッピーナが、ヴェルディの創作活動を支えた最大の功労者であることは間違いありません。フランス語が堪能で、社交性もあったジュゼッピーナの存在がなければ、ヴェルディはオペラ界の寵児となることもなければ、フランス語の台本から生まれた数々の傑作が世に出ることもありませんでした。
シュトルツや養子の家族も含め大所帯となったヴェルディの家で、ヴェルディは、「マエストロ」と呼ばれていました。彼を「ヴェルディ」と名前で呼ぶことを許されたのは、ジュゼッピーナただ一人だった、と言われています。
晩年、80才を過ぎたヴェルディ夫妻は、よく二人で手を取り合いながら、家の敷地を散歩したそうです。ヴェルディの家には、彼の作曲したオペラの名前のついた木が、植えられていました。その中でもジュゼッピーナがとりわけ愛したのは、大きく育った柳の木。「トラヴィアータ」「椿姫」と名付けられた柳の木が、ジュゼッピーナが晩年、最も愛した木だった、と、伝記作家は伝えています。

「椿姫」第三幕、ヴィオレッタのアリア「過ぎし日よ、さようなら」をお送りします。
 
「過ぎし日よ、さようなら」
 
終演***********************