「つみきのいえ」〜積み重なる時間、過ぎ去る時間〜

つみきのいえ」が短編アニメーション部門でアカデミー賞を取った、という話で、巷でずいぶん話題になっていますよね。我が家でも話題になり、昨夜女房から、

「一見の価値アリ。YouTubeでまだ見られるから一度見てご覧。以前NHK教育で偶然見た、『岸辺のふたり』という短編アニメを思い出しました。『岸辺のふたり』も短編アニメーション部門でアカデミー賞を取っているんだって。『ほぼ日刊イトイ新聞』で、アカデミー賞受賞前に、『つみきのいえ』を取り上げていて、これも面白いから必見」

との推薦を受ける。早速ネットチェック。そのままYouTubeで、『岸辺のふたり』も見てしまいました。感涙。

時間というものは過ぎ去っていくもの・・・という感覚が、最近少し変わってきている気がします。むしろ、時間というものは積み重なっていくもの、という感覚が普遍性を持ってきている気がする。それって実は、現代と言う時代の閉塞感とも裏表で、ずっちゃりと積み重なってしまった過去のしがらみでがんじがらめになって、なかなか変革に踏み込めない現代人の精神状況を反映しているような気もします。それをしがらみと感じるか、自分の人生を豊かに支える基盤として前向きに捉えるか、という捉え方の違いはあるのだけど。「つみきのいえ」は明確に後者なんだけどね。

「過ぎ去る時間」という感覚は、「昔はよかった」というノスタルジーと不可分なんですけど、そういう時間感覚は、時代が急速に変化していく時代において普遍性を持っていたのでは、と思います。高度成長期や世界大戦の混乱期のような変革の時代において、過去は文字通り過ぎ去ってしまったものであり、現在と過去の間には大きな変革という断絶があって、過去は現在とつながらない。現在は過去の積み重ねではなく、過去から断絶したものとしてそこにある。だからこそ、過去への回帰願望のようなものが語られる。

岸辺のふたり」と「つみきのいえ」を見比べると、前者が、「過ぎ去る時間」、後者が、「積み重なる時間」という対照的な時間感覚を描いていることに気が付く。以下、ネタバレ記述がありますので未見の方はご注意ください。

二つの作品の間に生じたその感覚の違いについて、時代背景から分析していくことも可能なような気もしますけど、それは私の手に余るので、ここでは、作品の中で印象的な二つの象徴について述べるに留めておきます。「岸辺のふたり」において時間を刻むのは、自転車の車輪、という象徴です。この車輪=時間、という記号は、あの「無法松の一生」の映画史に残るラストシーンでも採用されていた記号。くるくる回る車輪自体が、極めて動的に時間を捉える感覚、つまり、「過ぎ去る時間」という感覚を象徴している。さらに、「岸辺のふたり」では、過ぎ去った時間が輪のように一瞬で巻き戻っていく、というラストシーンで、車輪=時間という記号が完結する。その感動。

一方で、「つみきのいえ」においては、時間は文字通り「何層にも積み重なる家」として表現されている。その家の大半が水没している、という表現がまた象徴的で、水=深層心理の中に沈み込んで日常では表面に現われてこない「過去」が、実際には深層心理の中で何層にも何層にも「積み重なっている」のだ、という表現が実に味わい深い。結構知的に構築された世界観で、かなり非日常的な世界を描いているのに、温かい絵のタッチと自然なストーリの流れが、無理なくこの象徴の海の中へと見る人を誘ってくれる。

主人公の老人の過去への旅が、「潜水」という形で行われる、というのも、心理学的で面白いよね。サイコダイバー、なんて漫画もあったけど、この水底への旅は、過去への旅でもあり、老人の自分自身の再発見のための深層心理への旅でもある。いくつもの象徴と記号がまさに重畳的に「積み重なった」深い深い作品。アカデミー賞受賞も納得。

と言いながら、実は個人的には、「岸辺のふたり」の方が胸に迫ったりする。これは個人の趣味の問題だと思います。「ほぼ日」でも同じような感想があったのだけど、残される人が男性であるか、女性であるか、というので感情移入の仕方が違ってくる。多分、私の中に(ひょっとしたら男性一般に共通する感覚かもしれんが)、放浪、あるいは現状からの逃走への願望、みたいなものがあるのじゃないかな、という気がする。一人積み木の家に取り残された老人よりも、遠く旅立って少女の記憶の中にだけ残っている父親の方にシンパシーを感じてしまうし、逆に、残された少女に思い入れてしまうのかもしれない。

短編アニメーション部門、というのがアカデミー賞の一つのカテゴリーとして成り立っている、というのも面白いよね。「つみきのいえ」もそうだけど、一人の作家がこつこつと手作業で作っていく小世界、というのが短編アニメの魅力なんでしょうか。長編アニメーションのように組織力で勝負していないから、作品世界の凝縮度もぐっと濃くなる。セリフのない10分間の濃縮された人生を2つ、じっくりと噛みしめた夜でした。スンスン(鼻をすする音。花粉症ではない)。