北村薫強化月間

なんか、最近の読書感想文は北村薫さんだらけ。お気に入りの作家を発掘すると、次々読んでみたくなるもの。というわけで、ここ2週間くらいの間に、「月の砂漠をさばさばと」「冬のオペラ」「夜の蝉」と読みつなぐ。どれもいいなぁ。

「月の砂漠をさばさばと」で描かれている母と娘の関係なんか、うちの女房と娘の関係にダブって見えてしまって、そういう意味でも面白かった。日常の簡単なスケッチ、といった軽い作品集で、あっという間に読めて、読後感も爽やかなのだけど、単なるほのぼので終わらない、さりげない隠し味が効いているところがミソ。

「冬のオペラ」は、ちょっと実験的な作品のような気がしました。もともと、「私と円紫さん」シリーズに惹かれた大きな要因は、底流に流れている濃厚な文芸趣味だったし、「スキップ」でも、そういう要素は大きかった気がします。一方で、「冬のオペラ」の最初の2編では、そういう要素が影を潜めていて、どちらかというと、過去の名探偵モノに対するパロディ的要素が強い。それが、最後の表題作で思いっきり文芸趣味が中央に躍り出てきて、トーンも一気にシリアスになる。そこのギャップに、試行錯誤の跡を感じる気もするのだね。もちろん、構成名人の北村さんのことだから、最初から「冬のオペラ」の構想があって、そこに登場させる名探偵の造形のために、最初の2編では、あえて名探偵の描写に重点を置いたのかもしれないけど。

「夜の蝉」は、「私と円紫さん」シリーズの2作目。途中の「秋の花」から入ってしまったのがちょっと後悔なのだけど、こうやってシリーズの連続性が見えてくると、「私」の成長小説、つまり短編連作の形を取った長編小説、という性格がはっきり見えてきて面白い。

前作「空飛ぶ馬」よりも少し成長し、髪も伸びた「私」。3つの短編が、彼女自身の成長を示す明確な意味づけを持たされている構成が素晴らしい。「朧夜の底」という言葉の中に、初恋の淡いときめきと、人間関係の底に淀む毒や悪意の存在を象徴させた第一話。「六月の花嫁」は、その恋の部分に踏み込んで、一つの理想的な幸福なカップルを描き出すのだけど、「夜の蝉」では、「朧夜の底」で暗示された人間の毒の部分が、「お化け」という形で明示される。

そういう人間の醜い部分に直面した「私」が戻っていく所が、家族、さらに言えば姉妹愛、と言うところが、北村薫さんの一種の願望のようなものさえ垣間見えて切ない。「私と円紫さんシリーズ」に出てくる友人関係や家族関係が、理想的すぎてなんだか鼻につく、という感想もネット上で見たりするし、実際そういう部分はあると思う。「私」の成長過程には、北村薫さんの、「こうあって欲しい」という理想が反映されている気がしてなりません。

同じような感想を、「スキップ」の時にも書いているのだけど、「月の砂漠を」にせよ、「夜の蝉」にせよ、そういう「祈り」や「願望」と、リアリズムの間のバランスが微妙で、それが北村薫さんの作品の持っている、今にも壊れそうな儚さ、切なさにつながっている気がするのだね。もう少し理想に寄ってしまうとリアルじゃなくなるし、もう少しリアルに寄ってしまうと理想が崩れてしまう。そのあたりの危うい綱渡り。

「儚さ」(はかなさ)、と言う言葉は人の夢、と書くけれど、北村さんの作品を読んでいると、なんだかこの言葉がとてもしっくりくる気がします。今の私のかばんの中には「ターン」が入っているのだけど、これから「六の宮の姫君」も購入予定。「秋の花」も買って再読しようかなぁ。てなわけで、しばらく、北村薫強化月間は続きます。