「DEAD OR ZOMBIE」〜僕らの隣にいるゾンビ〜

ジョージ・A・ロメロ、という名前は僕ら世代の映画ファンにとってカリスマの一つだったと思います。ジョージ・ルーカススピルバーグと並べても遜色ない、と言い切る人だっているかもしれない。なにせ「ゾンビ」というフィクションを僕らの日常の中に当たり前に存在するリアルとして創造してしまったんだから。そういう意味では、同じく僕らの日常に潜んでいそうな吸血鬼を生み出したブラム・ストーカー辺りと並べるのが正しいのかもしれないけど。彼のゾンビ三部作は何度も繰り返し見ましたけど、ショック演出や特殊メイクだけではなく、三部作に共通して流れる終末観や死生観、社会風刺の毒と、人間存在自体の罪深さと悪魔性に対する絶望、それでも明日にむかって生きようとする希望のメッセージが、何度見ても強烈に胸に迫ってくる。ゾンビがその後、映画だけでなく我々の日常の中に定着したのも、この三部作が極めて優れた寓話だったからだと思います。

 

佐藤智也監督の短編映画「DEAD OR ZOMBIE」を知ったのは、さくら学院の卒業生、倉島颯良さんの初主演映画、という情報からだったんですが、夕張国際ファンタスティック映画祭で上映された際の映画評に、「42分という時間の中にゾンビ映画の全てが詰まっていた」(佐藤佐吉さん)という言葉を見て、これは見なきゃ、と思って行ってきました、新宿のK's Cinema。佐藤佐吉さんの言葉通り、あるいはそれを超えるほどに、ゾンビという寓話的存在に僕らの日常の隠喩をこれでもかとばかりに詰め込んだ、恐ろしく高密度の42分間でした。

 

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https://www.deadorzombie.com

 

以下の感想は若干ネタバレを含む可能性があるので未見の方はご注意下さい。また例によって異様に衒学的な知ったかぶり考察の嵐なので何卒広い心で読んでいただければ。

 

ロメロのゾンビ三部作において、ゾンビという存在は様々な概念のメタファーとして描かれていました。ざっと思いつくものをリスト化してみれば、

 

⑴大量消費と大衆社会の果てに、互いを貪る低知能な獣と化した末期的な人類(地獄が満杯になった、という登場人物のセリフには、人類の所業に対する神の怒り、という倫理観と終末世界観が見える)

⑵生存者という少数派人類を圧殺しようとするマスの暴力(生き残る側に黒人などのマイノリティが多いのは偶然ではない)

⑶生存者の友人や家族がゾンビ化する事で突きつけられる自分達自身の過去(その過去からどう決別して未来に向かうか)

⑷ペストが流行した欧州で人気となった「死の舞踏」モチーフへのオマージュ(花嫁姿やピエロ、アメフト選手といった様々なゾンビが行列している姿は、まさに「死の舞踏」)

⑸旺盛な食欲や首だけになっても生きている姿に、死んでいるのに感じてしまうシンプルで貪欲な生命力の象徴(マッドサイエンティストがゾンビを飼い慣らそうとする姿にはその生命力への憧憬すら感じられる)

 

このロメロ作品におけるゾンビに仮託された意味を踏まえた上で、「DEAD OR ZOMBIE」を見返してみれば、上記のような意味がしっかり引き継がれた上で、さらに新たな現代的な意味を加えたメタファーとして、極めてリアルにゾンビという現象が描写されていることに気づく。対応して書いてみます。

 

⑴終末世界の象徴としてのゾンビ:

引きこもりという状態で現代社会の歪みを背負っていた早希にとって、ゾンビが現れる前に、既にこの世自体が終わった状態だったという気がします。ゾンビが蔓延する世界は彼女にとっては既に終末を迎えたディストピアの先に立ち現れたものであって、ゾンビ自体が持っている終末世界観、というのはある意味引き継がれているとも言える。ただ、その意味は、後述する、よりリアリティを持った他の意味の背後に若干隠れている感じはする。

 

⑵マイノリティとしての生存者とマスとしてのゾンビ:

ロメロのゾンビ作品の生存者に政治的弱者やマイノリティが多い、というのは、ある意味究極の社会的弱者である「引きこもり」の早希のキャラクターに引き継がれている気がします。でも面白いなぁ、と思うのは、「個性」であるとか、「生きる目的」みたいな大義名分を求めてくるマスの暴力に対して引きこもるしかなかった早希だったのに、食人という欲求だけに単純化して無個性化したゾンビと相対していると、早希の気持ちが居心地よくなって、むしろ能動的に行動できる、という逆説なんだよね。結局生きるってことって色んな大義名分やお題目じゃなくて、もっとシンプルなものなんだよ、というのを、ゾンビと相対している間に早希自身が気づいていくような。

 

⑶自分自身の過去を映す鏡としてのゾンビ:

DEAD OR ZOMBIEで最も現代的だなぁ、と思ったのがこのテーマで、あんまり言うとネタバレになってしまうけど、早希自身がゾンビ化した家族と向き合っているうちに、その家族の中に自分自身の過去を再発見して、その過去を踏み台にして外界へ飛び出していく、というのが物語の大きな軸になっている。ゾンビ家族ドラマ、というこの映画のメイン設定が、このゾンビの基本設定をベースにしているのは確か。

でも佐藤監督は、物語の中にもうひとひねりを加えていて、それが早希のお母さんのドラマなんだよね。早希に対して何度も、「目的をもって生きなさい」と言い続けるお母さんが、人間だった頃の回想で、カウンセラーに対して、「私自身も目的なんか持ってなかった」と自省するシーンは、ゾンビ化したお母さんが「娘を救う」という極めてシンプルな目的だけに向かって行動するクライマックスの姿と対比されていて、ゾンビ化することによって衝動がシンプル化し、逆に強まる「生きる」目的、あるいは、ゾンビ化することで崩壊した家族が逆に理想の家族に再生してしまう、みたいな逆説の意味付けが無茶苦茶面白い。

 

感染症との関連:

佐藤監督も色んな所で、コロナとゾンビを並べて語っているけど、ゾンビという感染症に向かって相対する早希や、描かれる行政の対応なんかも、明らかにコロナによるロックダウンを連想させます。もともとペストが生み出した「死の舞踏」というモチーフへのオマージュを強く持っていたゾンビという題材が、感染症パンデミックという共通項で再びこのコロナの日本のゾンビ映画となって結実するっていうのが本当に面白いなぁって思います。

 

⑸生命力の象徴としてのゾンビ:

(3)でも書いたように、ゾンビの欲求はシンプルなだけに、逆に人間の持っている様々な雑念をきれいに取り払ってくれるような爽快感もある。ラストシーン、早希を「命がけ」で外界へ送り出した家族達がどうなるか、というオチにも、「ゾンビをなめちゃいけないぜ」みたいなリスペクトすら感じたりして。

 

上記のように、ロメロゾンビの意味世界をしっかり踏まえた上で、それに現代日本ならではの社会問題をダブらせたのがこの作品なのだけど、それがしっくり馴染んでしまうのは、ゾンビという題材の持っている許容力なのかもしれないですね。ゾンビ化した家族を「介護」する早希の姿には、ヤングケアラーの苦労も重なったりするし、それは早希のお祖母ちゃんが認知症の要介護老人である、という設定からも確信的に意識されている。そしてさらにこの映画のディストピア観にリアリティを与えているのが、311で僕らの目の前にまで迫った、リアルな「世界の終わり」の姿なんだよね。隔離されたゴーストタウンで孤立しながら生き抜く早希の姿にも、そこに現れる米兵の姿にも、311の福島や東北の状況がはっきりとダブって見える。そういう意味で、この映画は現代日本でしか作れないゾンビ映画、ともいえるかもしれない。311を知る日本だからこそ付け加えることができた、ゾンビに対する新たな意味。

さらにもう一つ、佐藤監督がゾンビに対して新たに加えた意味が、「俺たちだってゾンビみたいに、生きてるか死んでるか分からないような生き方してない?」という問いかけ。死と生のはざまにあって、ただ人を食うことしか考えられないゾンビは、早希にとって以前から人間よりも近しい存在だった。最初にこの映画のタイトルを見た時、「DEAD OR ALIVE」のパロディかな、と思ったんですけど、パロディどころじゃない、真正面に、「DEADも分かる、ZOMBIEの方が今の自分に近いから分かるさ、じゃあ、ALIVEってなんだよ?」という問いかけがこのタイトルそのものに内在しているんですよね。それが明確に示されるのがラストのクレジットロールで、このクレジットロールと、米兵を前にした早希の強い視線が重なった時、描かれなかった早希の力強い声がはっきりと聞こえた気がして、思わず目頭が熱くなりました。

この映画を、低予算映画にありがちな薄っぺらいドラマにしなかったのは、佐藤監督の作劇の見事さや、江川悦子さんによる迫真のゾンビ造形も大きな要因だと思うけど、何より、倉島颯良さんの存在感による所が大きいと思います。同じくゾンビをテーマにして話題になった「カメラを止めるな」が、凄く面白かったんだけど、どこかで物足りなさが残ってしまったのは、倉島さんのように、存在するだけで画面に説得力を与えてくれる役者さんがいなかったせいもあると思う。ほぼ一人で物語を進めていく倉島さんには、感情を顔の表情や動作といった形で作っていこうとするあざとさを感じない。もちろんそれも役者として重要なメソッドではあると思うし、さくら学院のダンスレッスンで美しい身体の所作を叩き込まれている倉島さんには、計算された動作をしろ、と言われればできる能力もあると思います。でも、早希の動きにはそんな衒いや力みがまるでない。本当に淡々とした無駄のない身体表現の中で、倉島さんの感情は、ただその強い瞳の輝きの奥から迸ってくる。外からではなく内側から湧き上がってくる感情。だからこそラストシーン、しっかりと前を見据えた早希が、はっきりと力強く叫ぶ声が聞こえる気がしたんだと思います。「I’m ALIVE!」と。

 

DEADからZOMBIEへ、そして、ALIVEへ。これもまた、ロメロ監督のゾンビ三部作が持っていた「死に満たされた世界での生きる希望」というテーマでもありました。佐藤智也監督、江川悦子さんはじめ、胸に残るゾンビ作品を生み出してくださった皆様に感謝です。そして何より、昔の映画少年だったオッサンの心をこんなに熱くする作品に出会わせてくれた倉島颯良さんと、さくら学院に感謝したいなって思います。