「スプートニクの恋人」〜多重世界の融合〜

村上春樹さんの小説の一つの大きなテーマが、「喪失感」にある、というのはよく言われること。その「喪失感」は、「本当の自分はここにはいない」という感覚から、「どこか別の世界にいる本当の自分」という、ドッペルゲンガー、あるいはパラレルワールド=多重世界の発想につながっていきます。その発想を一つの完成形に仕上げたのが、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。

先日読み終えた「スプートニクの恋人」では、このパラレルワールド的世界が、「ミュウ」という謎めいた女性でより明確に具体化しています。そして、そのパラレルワールドの中に迷い込む、「すみれ」という女性は、かつての「風の歌を聴け」の「鼠」を彷彿とさせる非常識なキャラクター。そう思うと、「ぼく」という語り手も、「風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」に登場した「僕」を彷彿とさせるユーモアのセンスを持った常識人。ネット上の書評でも、「初期のクールな村上春樹が戻ってきた」という評を見ました。確かにそういう印象もある。

でも、1995年以降の村上春樹は、やはり決定的に過去の村上春樹と異なっている。それは、ほぼ同じ分量で、同じような「対象の喪失」を描いた「国境の南 太陽の西」と比較すると明らかです。1992年に書かれた「国境の南・・・」と、1999年に書かれた「スプートニクの恋人」は、小説の分量、そして描かれている人物の関係などが、非常に近似している。「スプートニク」における「ミュウ」という女性は、「国境の南・・・」における「島本さん」と「イズミ」のキャラクターを混在させたような存在。その「ミュウ」をひたすら求める「すみれ」の渇望は、「国境の南・・・」の主人公の渇望に重なります。

「求めても得られないもの」「ここにはない何か」を捜し求める旅を描いたこの2つの小説のラストシーンは、極めて対照的な様相を見せます。未読の方にはネタバレになるので、あまり申しませんが、「国境の南・・・」が、決して満たされない喪失感を抱えて、日々を生きていかねばならない絶望の中で終わるのに比べ、「スプートニク・・・」のラストシーンは、近づいてくる充実感、失われたものが戻ってくる希望に満ちています。この二つのラストシーンが、同じ「夜明け前」の簿明を背景としているのも象徴的。

では、小説としての好みは、という話になると、このラストシーン故に、好みの分かれるところでしょうね。私の個人的な好みを言えば、「国境の南・・・」の方が好きです。失われたものは戻ってくる、という希望を持ち続けることには意味があるし、そういう物語を語り続けることには賛同するけれど、でも、物語はそう簡単に終わるものじゃない。失われたものは確かに戻ってくる。でも、それはきっと形を変えて戻ってくるのです。だから、喪失感が満たされることはない。石を飲み込んだような胸の痛みは消えることはない。その胸の痛みを癒すのは、背中に置かれた手のひらのぬくもりのような、もっと温かな優しい思いであり、包み込むような愛なんです。

神の子どもたちはみな踊る」の、「蜂蜜パイ」という短編が感動的だったのは、決して消えない不安感と喪失感を胸に抱えながら、愛するものを守っていこうとする決意が美しかったから。「スプートニク・・・」のラストシーンは確かに感動的なのだけど、個人的には、ちょっと違うんじゃないかな、という気がする。

さて、そろそろ、ねじまき鳥を読まないとなぁ・・・長いから手が出ないんだよなぁ・・・