「シャンソン・フランセーズ4」〜オシャレな時間旅行を楽しんで参りました〜

先日、女房の出演した東京室内歌劇場コンサート、「シャンソン・フランセーズ4〜愛しかない時〜」に行ってまいりました。シャンソンには全然詳しくないのですが、色々思ったことがあったので、感想、というより雑感、という感じで、よしなし書き散らかしてみます。非常に浅薄な文章もあると思いますが、浅学の輩の妄言ということで平にご容赦を。


ソプラノ:
大津佐知子
佐橋美起
清水菜穂子
中島佳代子
橋本美佳
 
メゾソプラノ
田辺いづみ
三橋千鶴
 
バリトン
根岸一郎
和田ひでき
 
ピアノ:
田中知子
 
アコーディオン
えびさわなおき。
 
という布陣でした。
 
街の名前がついた音楽のジャンルって、ウィーンとパリ以外にあんまり知らないなぁ、というのが最初に考えたこと。ウィーンオペレッタ、ウィンナワルツ、パリシャンソン、は聞くけど、ロンドンロック、とか東京ポップ、とは言わないよね。ブリティッシュロック、JPoP、とは言うけど。ニューオリンズはジャズの街だけど、ニューオリンズジャズ、とは言わないですよね?(言うのかな?)アルゼンチンタンゴ、は言うけど、ブエノスアイレスタンゴとは言わない?少なくとも私はそういう言い方を知らない。

要するにそれだけ、パリとウィーンが、ヨーロッパの中でも極めて特異な都市だ、ということなんじゃないか、という気がする。極めてユニークな個性と魅力を持った都市が、そのユニークさ故に、世界を魅了する音楽のジャンルを生み出す。もちろん、私がモノ知らずなだけで、ヨーロッパにいけば各都市固有の音楽が混在してそれぞれに強烈に個性を主張しているのかもしれないけど、パリのシャンソンやウィンナワルツほど、世界に受け入れられた「都市の名前を冠した音楽」って、そんなにないんじゃないかな、と思います。

パリ、という都市の音楽であるシャンソンを、一つのテーマに沿って集めた演奏会、という意識で鑑賞していると、「定点観測」という言葉がなんとなく浮かんできました。NHKに「ドキュメント72時間」という番組があるけど、あんな感じですね。パリの街角にずっと立って、そこに流れている時間、通り過ぎる人々、様々な人生をずっと眺めているような。

そういう印象が強かったのは、えびさわなおき。さん(。まで含めてお名前)のアコーディオンの存在感が大きかったせいかもしれない。アコーディオン、というのは、街角の楽器、という印象が強いですよね。えびさわなおき。さんがステージに座ってアコーディオンを奏で、様々な歌い手さんたちが、様々なパリを、それぞれの人生を歌っている姿を眺めていると、なんとなく、パリにこんな街角が実際にあるんじゃないかな、という気がしてくる。その街角には、一人のアコーディオン弾きがずっと座っていて、時には陽気な、時にはもの悲しい音楽を奏で続けている。田中知子さんの表情豊かなピアノは、まるでタイムマシン。冒頭でピアノが「ラ・マルセイユーズ」が流れた途端に、時計の針が一気に200年逆戻り、そして曲ごとに、一気に進んだり、戻ったりする。ピアノが導く時代の中に登場してきた歌い手が、自分に与えられた時間を精一杯生きている人々の思いを、人生を歌っていく。でも、どんなに時代が変わっても、どんなに時を行き来しても、その街角には、まるで時の流れから取り残されてしまったかのように、同じ姿のアコーディオン弾きがずっと座っていて、時には陽気な、時にはもの悲しい音楽を奏で続けている・・・

パリ、という定点に立って、そこに積み重なった時間の地層の間を旅するような感覚。時間旅行、という印象が強くなったのは、「愛しかない時」という今回のテーマにも影響されているかもしれない。今回の演奏会は、昨年11月にパリで発生した、同時多発テロへの追悼の意味もあった、とのことでしたが、歌われる歌は、パリ・コミューン普仏戦争の時代から、第一次大戦、第二次大戦と、市街戦の戦場となったパリを舞台とした死と別れの曲が多く、パリという街で、様々な時代に流された市民の血潮の堆積も感じました。いつになっても人は争い、血が流れ、その血がまだ石畳を濡らしている間に、新しい血がその上に流される。いつの時代にも、死があり、別れがある。愛が国境を越え、国境が愛を引き裂き、でもいつの時代にも、人は愛し合うことをやめない。そしてそんな悲しい別れや愛を、アコーディオン弾きはずっと見つめ続けている・・・

ある意味重いテーマを持った演奏会だったと思うのですが、企画のバランス感覚が素晴らしく、決して声高にテーマを押し付けるのではなく、「侯爵夫人さま、すべて順調でございます」といったコミックソングや、「キャラメル・ムー」のようなナンセンス曲、「二人の天使」「パリの空の下」といった定番シャンソンなどを交えて、胸の中に「愛しかない時」というテーマが、すとん、と落ちてくるような、そんなエンターテイメントに仕上がっていました。プロデュース兼ピアニストの田中知子さんの、時を超える疾走感が素晴らしい。ユジャ・ワンも顔負けの金髪ミニスカート網タイツ衣装も、SF映画の時間旅行ガイドみたいに見えてきたりして。

歌い手さんそれぞれの存在感、魅力も素晴らしかったので、個々のソリストの印象を言い始めるとキリがありません。なので、失礼とは思いつつ、一言だけ。佐橋さんのコケットさと安定感、清水さんの包容力と温かな声、中島さんの透明感と気品あるたたずまい、それぞれにほんとに素敵。三橋さんの存在感と、シャンソンの定番をオフマイクであれだけ歌い上げることができる表現力と技術には圧倒されました。まさにパリの洒落男、という感じの和田さんと根岸さんの男声陣も、茶目っ気と大人の雰囲気の適度なブレンド感がよい。見習わないとな〜。

11月に女房が共演させていただく橋本さんと田辺さん。キャラクターがしっかり立っているのに歌唱が揺るがないのがすごいよなぁ、といつも思います。キャラを立てようとしすぎて歌唱が安定しない歌い手さんって結構いますもんねぇ。田辺さんの「アコーディオン弾き」の鬼気迫る、でもコントロールされた表現、橋本さんの「愛の追憶」の抑制された、でも内に秘めた熱情の表現、共に魅了されました。

我が女房どのは、コクトーの詩にミヨーが曲を付けた「キャラメル・ムー」というナンセンスソングに挑戦。ナンセンスなのに実におしゃれ、というのがコクトーの神髄で、それをきちんと伝えるには、「コントロールされたしっちゃかめっちゃかさ」というのを表現しないといけない。歌唱にしても振り付けにしても、相当緻密にプランを作って臨んでいましたし、きゃりーぱみゅぱみゅみたいな衣装もきっちり歌の世界観にマッチしていました。デタラメなことをやりたい放題やっててそれでもすごく魅力的、というのは、同じフランスのルイ・マルの映画、「地下鉄のザジ」みたい。あれも無茶苦茶やっているようですごく計算された映画だったけど、そう考えると、きゃりーぱみゅぱみゅだって、すごく計算された「何でもあり」感が魅力なんですよね。もう一曲、女房が歌った「ふたりの天使」は、中島さんとの二重唱での超有名曲だったのですが、男声と比べて倍音が少なくて難しいと言われる女声の二重唱が見事にハモっていて素晴らしかった。


女房に聞くと、練習時間も含めて、とにかく楽しい企画だったそうで、舞台上の皆さんのパフォーマンスからも、そういう現場の温かさが伝わってきました。出演者の皆様、スタッフの皆様、素敵な時間旅行をありがとうございました。またパリに行ってみたいなぁ、なんて思わせる、そんな素晴らしい演奏会でした。