解釈と表現

舞台表現をしていると、ある表現をどういう解釈に沿って表現するか、というのが議論になることがあります。このセリフを言っているときの気持ちはかなしいのか、うれしいのか。「かなしい」と言っても、「悲しい」と「哀しい」では表現が変わってくる。あるいは、一つのセリフと別のセリフの間の関係性をどう捉えるか。このセリフは別の人のセリフを受けて喋っている、と解釈するのと、そうじゃなくて独立で喋っている、と解釈するのとで、表現が変わってくる。

「こういう感情を持って表現するべきだ」とか、「この言葉はこういう意味で表現されるべきだ」という話はやってしかるべきなんですけど、実をいえば、表現者としてはそこで留まってしまってはいけないんです。「ではどうやってその意味や感情をお客様に伝えるのか」・・・つまり、「表現の方法」について考えるプロセスが必要になる。

女房と昨日、そんな話をしていて、女房が、「表現者である以上、肉体の話をしないと意味がないんだよなぁ」と呟いた。それはまさしくその通りで、「こういう解釈」だからこそ、「こういう肉体表現」なのだ、という、自分なりの筋道を作らないと意味がない。折角頭の中で構築した解釈が、「表現」として外に出て行かないと意味がない。

例えば、「悲しい」という解釈がなされた時に、では、そのセリフを、「泣く」という肉体表現とともに発するのか、あるいは、「笑う」という肉体表現とともに発するのか。「悲しい」から「泣く」という直截な表現の方が分かりやすく伝わる局面もあれば、「悲しい」けど「笑う」という婉曲な表現の方が、お客様の胸に「悲しい」という解釈がきちんと届く場合もある。いずれにせよ、自分が作り上げた解釈を、お客様に届けるために、表現者としてどう表現するべきか、という議論がないと意味がない。

それは、音楽表現をしている人間としては、音色を変えないと意味がない、ということと同義です。人間の声、というのは本来、非常に豊かな表現の幅を持っている楽器のはずなんだけど、歌声、となった途端に、その表現の幅が急に狭くなる。音楽的な美しい音色を保ちながら、時に明るく、時に暗く、陰影の深い表現を実現するために、歌い手は自分の技術を磨く。解釈は、そうやって獲得した表現力によって、お客様に伝わって初めて意味を持つ。

私も合唱団にいた人間なのでよく分かるんですが、音符や言葉に対して、色んな「意味づけ」「解釈付け」をすることっていうのはすごく楽しい。「この音はこういう情景を表しているよね」「この歌詞の意味はこういう意味で、だからここはこういう音型なんだよね・・・」そういう解釈って楽しいから、合唱団の中ではよくこういう解釈論争が起こって、すごく盛り上がったりする。そうやって盛り上がること自体は否定しないんだけど、本当は、「じゃあどうやったらその解釈の結果をお客様に伝えられるだろうか」という話に移らないと意味がないはず。なんだけどね、多くの議論は、解釈のための解釈、議論のための議論に墜ちてしまって、「お客様に伝える」という部分がすっぽり抜け落ちてしまうことがよくある。

ただ、合唱団というのは不思議なイキモノで、そういう解釈のための解釈、議論のための議論を重ねるうちに、いつのまにか自覚のないうちに声が変わっていく、ということもあります。特にアマチュア合唱団においてそういう傾向が強い気がする。解釈の結果を自分の声に反映させるだけの技術がないから、自覚的に表現することができないんだけど、与えられた解釈のイメージで無自覚に声が変わるんですね。

だから、合唱団の中の議論のための議論、というのを否定するつもりはない。ないんだけど、やっぱり歌い手としては、その解釈をどうやって自分の声に反映すればいいのか、という点を、肉体的な表現技術として落としこめるくらいに、自分の技術を磨きたい。逆に、そういう技術として落とし込まれた表現は、環境や精神状態に無関係に再現可能になるもの。会場の雰囲気とかで容易に変化してしまうアマチュア合唱団の表現ではなくて、常に安定的にお客様を感動させてくれるプロ表現者としての技術が身につけられれば、それに越したことはないんだけどね。道は険しいんだよねぇ。