「市場」への郷愁

子供の頃住んでいたのは、大阪の長居公園の近く。今は長居スタジアムで有名なエリアですね。子供の頃、お袋の買い物のお供、となると、近所にある長居市場、という市場に出かけていました。裏手に神社があった記憶があるので、氏神さんの門前市場が発展したものだったんじゃないかな、と想像。大人になって考えると、極めてアジア的な、まさに「市場」だったなぁ、と思います。東京あたりで想像するなら、下北沢の駅前の商店街をもっと平面的に、規模を広げたような感じかなぁ。

大きな建物の中に、小さな小売店がひしめきあっていて、細い迷路のような通路の中をくぐりぬけていくと、左右から威勢のいい呼び込みの声がする。ここの味噌屋さんが好きだったなぁ。店内には大きな桶が何個も並び、どの桶にも山盛りに味噌が盛られている。その味噌山を指差し、「これとこれ」とお願いすると、店のお兄さんが、大きなしゃもじで掬い取ってくれて、そのしゃもじを手裏剣よろしく、味噌山に向かってはっしと投げつけ、しゃもじがすとん、ときれいに突っ立つ。この長居市場が発行しているお楽しみチケット、というのがあって、切手みたいになっていて、別に配布されている台紙に貼っていく。この台紙が溜まったら、お菓子なんかと引き換えてくれる。子供の頃は、このお楽しみ券を台紙に貼る手伝いをするのが楽しみだった。

東京に来て、同じような小売店が集合している場所、というのをいくつか見ましたけど、長居市場のように、一つの建物の中に小売店がひしめき合っている、という場所には、今まであまりお目にかかったことがありません。「商店街」、というのならよく見ますけどね。長い通りに小売店がずらっと並んでいる形態。下北沢の駅前商店街は若干ごちゃっと固まっている感じがあるけど、武蔵小山の商店街とか、砂町商店街、中野の駅前通りなんかは、どれも、「通り」を中心に細長く小売店が並ぶ、という形態。

「通り」というのは人の通行に伴ってモノを売る、という形態ですから、人には移動の目的地があって、そのついでに通りで買い物を済ませる・・・という感じになりますよね。でも、「市場」というのは、小売店が平面的に集合している場所。お客様はそこにわざわざ行って買い物をする。買い物、という目的のために人が集まってくる場所。こういう形態っていうのは、いわゆる大規模ショッピングセンターとか、量販店に弱いんじゃないかな、という気がします。長居市場もかなり以前になくなってしまったようだし、最近ではなかなか難しい形態なのかなぁ、なんて思います。

なので、先日、GW中に女房と二人で行ってきた、府中にある「大東京綜合卸売センター」には、なんだか一種の郷愁のようなものを感じてしまいました。ここは小売店の集合体、というよりも、飲食店向けの卸売店の集合体、という感じで、並んでいる商品も、液体洗剤2リットル、とか、大量の割り箸といった「業界向け」の商品。お菓子も10個まとめ売り、肉類は基本1キロ単位、巨大な業務用ミートソース缶とか、でっかい袋入りのふりかけとか、巨人の国に紛れ込んだかと思うような商品が一杯並んでいます。女房に言わせると、「幼稚園や小学校のイベントで、大人数の子供たちにお菓子を配る、といった時に、ものすごく重宝するんだよ」とのこと。一抱えもあるような袋に入ったお菓子をあるし、それを小分けするための小さな袋とか、かわいい飾りとかも大量に売っている。これはママさんたちに重宝されるわけだ。

勿論値段もすごく安い。100円ショップで売っているようなおもちゃや食器を並べているお店もあったのですが、大体90円以下。そうすると、ここから仕入れた商品に、流通コストとか人件費とか店の維持費とかが色々上乗せされて、最終的に100円、という値段が決まってくるんだな。流通のしくみを勉強するにはいい場所だ。

大きな建物の中に、個人経営のお店が所狭しと並んでいる・・・という風情は、子供の頃親しんだ「市場」そのもの。商品の並べ方や雰囲気は、むしろ東南アジアあたりの市場に似ている。そうやって考えると、私が香港や中国のショッピングセンターにちょっと郷愁を感じてしまうのも、長居市場の記憶のせいかもしれないなぁ。そもそも関西、特に大阪という土地は、日本の中の香港のような場所・・・というのが私のイメージで、どこかアジアのテイストがある気がしています。アジアの都市を歩いていて感じる懐かしさ、というのは、私が大阪で育った、という背景から来ているのかもしれないなぁ。