コドモのキモチ、オヤのキモチ

舞台上で子供と共演した経験は2度ほど。1度目は、埼玉オペラの「カルメン」。2度目が、大田区オペラの「ノルマ」。どちらも驚いたのは、子供の計算のない演技の確かさ、無駄のなさ。大人が頭で考えた「演技」で、無駄な動きや雑味が一杯入った演技をやらかしてしまう一方で、子供の演技は0か1。何かをやるか、あるいは全くやらないか。その間の中途半端な演技がないから、かえって演技のエッジが立って見える。

そこには色んな計算や色んな思惑がないからなんだろうな、と思っていたのだけど、ちょっと違うのかも、と最近思い始めた。そういう、「考えていない自然な演技」というのとはちょっと違っていて、実は、子供たちの方が、大人よりもよっぽどきちんと考えているのかもしれない。なんでそんなことを思っちゃったか、というと、実は今度、「美しきエレーヌ」で、うちの娘がチョイ役で出演することが決まったせい。娘は恥ずかしがりやで、これまで舞台に立つことは絶対イヤだ、と言い続けてきたのだけど、演出家のY氏のじきじきの出演要請に、照れ臭そうに笑いつつ頷いてしまった。さて、それから、うちの娘の悩みが始まってしまいました。

今までは、練習といえば、パパやママの演技や、楽しい歌の練習を見て楽しんでいれば済んだのだけど、自分が出演者になった、となると、やっぱり全然意識が違ってくるんですね。娘が登場するのは3幕、それも一瞬。一瞬なのだけど、中々印象的な登場シーン。演出家からも、「重要な役なんだよ」と説明され、パパやママには、娘からの色んな質問やお悩みが寄せられるようになりました。

「どうして私がここで出てくるの?どういう意味があるの?」
「衣装はどんなのになるの?」
「(衣装が決まると)この衣装でちゃんと走れるかなぁ?靴はどんなのになるの?」
「私はどこにいることになっているの?3幕は砂浜だけど、こんなドレスでいいの?これだとお家の中にいることにならないの?」
「Yさんは笑えって言ったけど、顔が引きつっちゃって笑えないよぉ」
「舞台はどれくらいの広さなの?この練習会場と同じくらい?」
「3幕の練習はいつあるの?いつ通し稽古があるの?合宿はいつなの?」
「髪型はどうなるのかなぁ?ぐちゃぐちゃにされちゃうかなぁ?染められたりしないかなぁ?」
「メイクはどうなるの?口紅はピンクがいいなぁ。ファウンデーション塗るの?」

いざ舞台に乗る、と決めてしまうと色んなことが気になる。気にしながら、恥ずかしさもまたぶりかえしてくるらしくて、唇を尖らせて照れ笑いをしながら、あーでもない、こーでもない、と色んな質問を投げてくる。

小さい頭で、すごく細かく突き詰めて、舞台の上の自分の演技のことを考えているんですね。その集中力や、自分の舞台上での姿や演技をきちんと想像しようとする力に驚かされる。今まで共演した子供たちも、とても自然な演技をしていたけれど、その裏ではきっと、自分の演技をどう組み立てればいいか、すごく一生懸命考えて、親御さんたちをこんな風に質問攻めにしていたんだろうなぁ。そう考えると、「意図しない自然な演技」なんていう評価は、すごく考えぬいて演技していた彼らに対して、とても失礼なコメントだよね。

舞台の演技と言うのは、自分の演技に対して、「何故こうなのか」「どうあるべきなのか」ということをどれだけ突き詰めて考えるか・・・ということ。考えて考えた挙句に、もっとも最小限の動作で、その「あるべき姿」を示していく作業。大人の演技が子供の演技に負けてしまうのは、そうやって考えるプロセスをサボって、演出家の指示をただ待ってしまう、というのが一つの大きな原因。あと大きな要因は、自分なりの中途半端な「演技プラン」が、必要最小限の動きの周りに色んな余計な動作をくっつけて、演技全体に雑味を加えてしまうこと。子供には「これ」と決めればそれ以外の動きをしない、という集中力があるから、演技に雑味が入らない。「これ」と決めるプロセスでは、前述のように自分で納得するまで考えているから、余計に演技がピュアになる。

やっぱり子供には敵わんなぁ、と思いながら、パパとママは、といえば、初めての我が子との共演にかなり興奮気味です。自分の演技よりもよっぽど娘の登場シーンの方が気になる。娘の演技にばっかり気持ちが行って、自分の演技がグダグダにならないようにしなければ、といいながら、娘の髪型がどうなるのか、娘の小道具がどうなるのか、娘よりもよっぽど気になってしまうパパなのでした。先日も娘の衣装姿の写真を、ヘアメイク用に撮影してくれた団員のYさんが、気をきかせてその写真を会社に送ってきてくれた。早速会社のPCの壁紙に貼り付けてヤニ下がっている。日常生活からすでにグダグダなんですけど、大丈夫かい。