鮮度を保つこと・研ぎ澄ますこと

お笑い芸人さんが、自分のトレードマークのようにして持っている一発芸がありますよね。最近で言えば、小島よしおの「そんなの関係ねぇ」とか、既に記憶の片隅にしか残っていないレイザーラモンHGの「フォー!」とか、いまや誰か覚えている人がいるだろうか、の「なんでだろ〜」(テツandトモ)とか・・・どれも一過性のもので、良識ある人たちが眉をひそめるようなものなんだけど、こういう一発芸っていうのは、実はものすごく難しいものなんだよなぁ、と、最近思います。それをやったら必ずウケる、必ず盛り上がる、ということは、その芸の鮮度が常に保たれている、ということ。でも、芸っていうのは中々鮮度を保つのが難しい。上記の一発芸だって、「あっという間に廃れる」なんて言われますけど、1年とか2年という寿命だって、十分に長いと思う。

なんでそんなことを考えたか、というと、舞台の練習をしていると、前回の練習でウケたリアクションが、次の練習では全然ウケない、ということがしょっちゅうあるから。練習というのは、演出家とその周りで見ている団員さん、というギャラリーの前でやる「本番」ともいえるんですけど、このギャラリーというのがすごくシビア。同じ舞台を作っているから、当然その先の展開は知っている。先週やった芝居も知っている。そういう相手が、「あの芝居は何度やられても笑っちゃう(泣いちゃう、感動しちゃう)」と言ってくれるような芝居・・・というのは中々できないもんです。一回の練習で受けたけど、次はもう受けないギャグなんて、「あっという間」どころか、一回しかもたない、まさに「一瞬芸」だよね。

一度の練習の時に笑っちゃったお芝居も、二度目には予想がついてしまう・・・ギャラリーが「慣れてしまう」というのも勿論あります。でも一番の要因は、一度の練習で「ウケた」という記憶が、演技する側に残ってしまって、その「ウケた」芝居をなぞろう・・・という意識が出てしまうことじゃないかな、という気がする。要するに、演技が「段取り」になってしまうんですね。前回の段取りをそのまま再現しようという。

段取りを追いかけてしまうと、やっぱりその演技の鮮度は失われてしまう。アドリブ芝居で受けた時なんか典型的で、一度目はアドリブなんだけど、二度目以降は絶対「段取り」になっちゃう。それを確実にウケる芝居=型に昇華していく、というのは、やっぱり相当の技術と工夫がいるんじゃないか、と思います。アドリブ芝居の持つ鮮度が生み出すパワーと同じくらいのパワーを持つ、「定型化された」芸・・・そういう型のしっかりした芸を作っていく過程・・・というのは、アドリブ芝居を作っていく過程とは全く違う。これなら確実にウケる、という、言葉の間(これが一番大事)、動き、声の高さ、響き、色を探していく過程。お笑い芸人さんたちの一発芸も、きっとそういう「これなら確実にウケる」という型を追及して追及して、初めて獲得できたもので、だからこそ1年・2年という間でも生き延びることができるんだと思う。もちろん、そういう「型」の追及という意味では、伝統芸能には絶対かなわないんだけどね。

少し前にBSでやっていた「ちりとてちんの落語を聞こう」という番組で、米朝さんが「はてなの茶碗」をやっていました。100年以上ウケ続けている絶妙な笑いの「間」・・・まさしく「型」として完成された芸。この演目をドラマで演じた、小草若役の茂山宗彦さんが、「米朝さんの『間』を研究するために、テープを聴きながら必死でゴマ点打ちましたよ!」とおっしゃっている。「これしかない間」を作り上げてきた落語という芸にも感心するし、それを必死に探求する茂山さんにも感心するけど、「ゴマ点」という単語がすらっと出てくる茂山さんに一番感動したかもしれん。「ゴマ点」というのは、記譜の一種で、能や狂言謡曲の歌詞の脇に書かれる間を表す記号のことなんだって。芸に歴史あり。

以前も日記に書きましたが、昔、声優の勉強をしていた頃、落語のお稽古をしたことがありました。「道灌」という演目の一部を、故柳家つば女師匠がやってくれて、それを口真似で覚える。20名くらいの研究生が、みんなの前で発表会をして、一番に選ばれた人が、実際にお客様の前で、つば女師匠の前座を務める、という課題。

結構面白い芝居をする研究生もいて、多少ウケを取った人もいたのだけど、実際に、つば女師匠が選んだのは、全くウケなかったけど、「とにかくきちんと師匠が教えた通りに言えた人」でした。正直、私も多少ウケが取れた生徒だったので、「なんであんなに面白くない人が一番になったんだ?」なんて不満もありましたけど、今から思えば、きちんと型を身につけようとせずに、「ウケ」を取りに行こうとする人をふるい落としていたんだね。結果を先に取りに行っても結局は身につかない。きちんと「型」を身につけないと、ただの「型なし」になってしまう。

そういう「型」を重視する芸の対極のアプローチとして、小演劇の世界では、逆に、全ての段取りを完全に排した芝居作り、というのを追及するトレンドもありました。今でもあるんだろうな。段取りとして、型としてお芝居を完成させていくのではなくて、ドラマが生まれてくるような雰囲気や空気を作っていき、そういう空気の中に観客を巻き込んでいこうとするアプローチ。自分がそういう練習の場に居合わせたことがないので、それはそれですごくスリリングなんじゃないかなぁ、とは思う。そういう雰囲気や空気の中から生まれた、アドリブしかないお芝居・・・というのもすごく興奮しそう。もちろん、どんどん観客から離れていって、独りよがりに陥ってしまうリスクは大きいですけど・・・

少なくとも、ガレリア座のように、「音楽」という型の中でどれだけ自分らしく作っていくか、という舞台においては、型のしっかりしたお芝居を作っていくアプローチが欠かせません。型がしっかりしている、というのは、無駄がない、ということにつながります。1度さわるだけでいいところを2度さわっちゃうだけで、インパクトは逆に弱まってしまう。練習会場での作業は、まずは色々と動いてみて、次にはそういう動きの中から、本当に必要なものだけを取り出していく、あとは動かないで我慢する・・・という作業の繰り返し。極力雑味を排して、極力シャープに研ぎ澄まして、シンプルにシンプルに作っていく。特に私のやる「カルカス」という役は、下手に色気を出さずに淡々とこなしていかないとまずい役。10分間、ほとんど微動だにせず、数えるくらいの所作しかしないで、それでいてその一つ一つの所作が、鮮やかに観客の目に残るような・・・そういう演技が理想です。遠いけど。