「黎明の風」〜ハデすぎました〜

私の兄が書いた「白洲次郎 占領を背負った男」を素材に、宝塚歌劇が「白洲次郎さんをタカラヅカの舞台にします」という話があって、ほんとかよ、と思っていたら、これがほんとになっちゃいました。「黎明の風-侍ジェントルマン 白洲次郎の挑戦-」という舞台。3月に開幕した宝塚大劇場の舞台を見に行ったタカラヅカファンのお袋が、「白洲さんがどうやったらタカラヅカになるのか、と思っていたら、ちゃんとタカラヅカになっていてびっくりした」という。これは身内の特権を駆使して見に行かねばなるまい、と、4月4日の東京宝塚劇場の初日を、家族3人と、兄嫁、姪の5人で見に行ってきました。

大体「タカラヅカ」というのは、ヴェルディだろうが手塚治虫だろうが池田理代子だろうがビゼーだろうが、全部「タカラヅカ」にしてしまえるパワーを持った場所ですから、白洲次郎さん、という素材も、とにもかくにもタカラヅカの舞台にはなるのだろう、と思っていました。ただ、どういう風に料理されるのか、という点に興味があったのだけど、なかなか際どい素材を、結構正面からきちんと骨太に描きこんでいてびっくりしてしまった。

白洲次郎さんを取り上げるとなると、吉田茂内閣における終戦処理、すなわち、東京裁判天皇陛下の戦争責任、そして憲法問題、という部分に触れざるを得なくなる。終戦から今日に至るまで、現代日本の政治を語る上で、常に議論の的であり続けた、極めてデリケートなテーマ。そこをどう処理していくのか、というのが一つの興味だったのだけど、石田昌也さん、という作家は、そのテーマに対して極めて真摯に、真正面から取り上げながら、偏った視点に囚われることなく、非常にニュートラルな形で描き出すことに成功している。それは、轟悠演じる白洲次郎に対し、大和悠河演じるマッカーサーを等価の英雄として描き出し、日本人として日本を愛した白洲と、米国人として日本を愛したマッカーサーを対比させる、という構成の効果、と見ました。タカラヅカの宿命としての「トップ制」に対して、轟悠という役者がもたらした「ダブル・トップ制」とでも言うような変則的な形態を、逆手にとったような感じ。

もう一つの要素を言うならば、大東亜戦争あるいは太平洋戦争の敗戦、という事実自体が、現代の我々にとって、やっと、ある程度客観的に見ることができる歴史上の事実になった・・・ということなのかもしれません。終戦において昭和天皇が果たした役割・・・彼自身の英雄的な言動がマッカーサーを動かし、マッカーサーをして強烈な天皇シンパとした、という事実が、戦後日本の一つの方向性を決定した、というのは既に多くの人が知る事実。でも、私の学生時代には、そういう事実を口にすること自体が、自分自身の政治的姿勢を規定する行為だったような気がする。そういう「昭和の呪縛」のようなものが、次第に薄れているのが平成日本・・・なのかもしれませんね。

ただ、やっぱり白洲次郎という人はなかなか描きこむことが難しい素材で、ネットでの感想をチェックした女房も、「結局白洲次郎さんが何をやった人か、という事績がはっきり分からなかった、という感想が多かったね」とのこと。GHQの独断専横を抑止し、GHQの内部抗争に乗じて逆にそれを牛耳った老獪な政治家でありながら、生涯を吉田茂の補佐官として表舞台に立つことなく、カントリージェントルマンとしての矜持を保ったダンディズムの人・・・でもそういう「何をやった人かよく分からない」人物であるにも関わらず、無茶苦茶カッコイイ人だったんだなぁ、と実感させるのに成功した要因が、轟悠という、「トップ・オブ・ザ・トップ」の役者さんの存在感。

轟さんが、専科という立場と理事という立場と、「トップ・オブ・ザ・トップ」という立場で、各組の公演の主役を勤め続けていることには、批判の声もあるようです。しかし、舞台というのは残酷なもので、歌といい演技といいダンスといい存在感といい、宙組トップの大和さんを圧倒しているのは素人目にも明らか。逆に言えば、これだけの存在感のある役者さんが演じなければ、白洲次郎という人の浮世離れしたかっこよさ、というのは描ききれなかったかなぁ、という気はする。

身内の特権で、演出家の先生やタカラヅカの理事さんのお席のすぐ後ろ、という特等席を確保してもらったのですが、生音で勝負するオペラやオペレッタに慣れているうちの娘からすると、マイクで集音した声や楽器音が、電子的にスピーカーから流れてくる・・・というのがちょっとしんどかったみたいです。タカラヅカ流のこれでもかこれでもかと過剰に盛り付けられた情報量にも圧倒されたらしく、娘の日記には、「私にはハデすぎました。とちゅうでつまらなくなってしまって、あやとりをしていました」との記述が・・・このまま娘がタカラヅカにはまってしまったらどうしようか、と思ったのですが、ちょっとほっとしたような、ちょっと残念なような、複雑な気分。近くのお席にお座りになっていた白洲次郎さんのご次男にも挨拶することができ、(呆れるほど次郎さんにそっくり!)中々できない貴重な体験をさせてもらった一夜でした。