日本という国の劣化

汚染された米セシウムさん、というテロップが東海テレビで流れて、達増岩手県知事が抗議した、というニュースを見ました。情けない、としか言う言葉がみつからないんだけど、それにしても、海外から見ていて、日本という国自体の劣化が最近激しい気がしています。今回の震災は、長年積み重なった日本と言う国の構造疲労を一気に噴出させている気がする。

一体いつから日本のマスコミはここまで馬鹿になってしまったのか、と考え始めると、色んな深い話(かつ不快な話)に行き着く気がするんだけど、一つの切り口、というか見方として、「軸」がない、ということがある気がする。白洲次郎さんが言うところの、「Principle」だね。

米国には強固なキリスト教的倫理観が底流にあって、それが色んなConflictを起こしたりもする。同性婚を認めるかどうか、というのが大きな論争を生んだりするのも、この倫理観から外れた現象や行為をどう許容していくか、という話。Conflictの中ではHate Climeのようなネガティブな行動が出てきたりもするけれど、それでもこの国の人たちは、自分たちの軸とそこから外れるものとの間をどう妥協させていくか、というところで、議論や会話を積み重ねている気がします。でも、そういう議論は、「軸」があるからこそ成り立つ。

日本は、Conflictを避けるために、相手におもねる姿勢が強すぎる気がする。第二次大戦によって過去の精神軸を完全に破壊された後、この国は「軸」になるものを失ってしまった。軸のないところにはConflictもない。その代わり、議論もない。議論がないところに知性が育たない。そうして日本人はどんどん馬鹿になる。

明確なPrincipleと知性を持った人が、そこから少し外れた行動を取って笑いを誘う、それを受け止める人にも、それが軸を外れた行動だ、ということを理解するだけの知性がある、というのが本来のユーモアの成り立つ状況なんだけど、「汚染された米」というテロップには、Principleも知性も感じないし、それを受け止めて笑っているTV局のスタジオの中にも、一切の知性を感じない。震災関連報道で、マスコミの舞台裏の色んな発言が表にもれるケースは他にもありましたけど、どれもこれもマスコミの現場がどれほど白痴的な会話で成り立っているか、という状況を曝け出すものばかりでした。それは、自分の軸を失って、視聴率という数字のために大衆に迎合し続けてきたマスコミが、結果的に自分自身の知性を破壊してきた過程の終着点のような気がする。

軸のない国ではびこるのは個人の利益を追求する姿勢と、相手におもねるばかりで衝突を避け、課題を解決しようとしないでそれを先送りにする行動様式。自分以外に正しい人間はいないと居座る最高権力者、自社の経営権を他国にがっちり握られて他国のコンテンツを流しまくって恥じない放送局、それを批判したタレントをクビにするタレント事務所、何もかもが、軸を失って漂流するこの国の精神的劣化を表しているように思います。

敗戦からの復興、という目標に対し、戦前の倫理観を保った経営者がひたすら邁進していた幸福な時代が終わり、精神的な軸を失ったリーダたちが、再び復興という目標を突きつけられた時、何をすればいいのか分からず迷走している。震災後に日本に戻ってみて感じたのは、先の見えない不安感の中で、将来に期待を持てずに、とりあえず目の前のことを黙々と処理しているような、みんなが自分の足元しか見ていないような、そんな重苦しい雰囲気でした。先が見えないんだからしょうがない、という人もいるだろうけど、同じように文化大革命で精神的な軸を失った隣国は、恐ろしくエゴイスティックに自分の利益だけを追求するパワーを持っている。それがいいとは決して思わないけど、あのパワーだけは見習ってもいい気がするんだけどね。

海外から見れば、日本という国の文化やコンテンツは沢山の人たちを魅了しているし、高い技術力だって健在。そういう素晴らしい国が滅びていくのを見るのは哀しいけど、どうも時間の問題、という気がしてきてならない。