議論にならない

会社で色んな会議をやって議論していると、議論の方向が拡散しないようにするのに非常に気を使います。米国人は、会議の流れがどうなっているか、という「空気を読む」なんてことはしません。とにかく自分の言いたいことは言う。その会議に関係のないことでも、「そう言えばさ」なんて思いついたことをべらべら喋り出すから、その道筋をもとに戻していくのが大変。

その代わり、会議で言いたいことは全部言ってる、という満足感があるから、会議の決定に対して後からぐちゃぐちゃ言ってくる、なんてことはあまりありません。言いたいことは言う。その結果を上層部がどうとらえたか自分の責任範囲じゃないし、結論が出れば、それが自分の意志と違っていても、従う。はっきりしていて、分かりやすい。

日本人が、そういう意味での会議・議論が下手、というのはよく言われること。でも、単純に「下手」ということではなくて、会議というのは合意形成のプロセスですから、議会場での、多数による意見交換によって合意を形成するか、議会外での、1対1の交渉によって合意を形成しておいて、議会でそれをオーソライズするか、という手法の違いだと思います。議会外でのそういう「根回し」が、日本的で陰湿だ、なんて言う人がいるけど、米国でも会議場の外で、うるさ型のおっちゃんとかに事前に、「こんなことがあったんだけどどう思う?」と一言言っておく、なんてことはやらないとダメ。もっとはっきりした「ロビイング」という根回しのスタイルだってある。重ねて言いますが、オープンな場での討論、というのは合意形成の一つの手法に過ぎないし、決定事項によっては最善の手法とも限らない。

大事なことは、相手の意見を尊重すること。しっかり耳を傾けること。その意見が受け入れられないとしたら、その理由をしっかり説明して納得してもらうこと。会議場という他の人の耳目もある場所で、それが難しいとしたら、1対1でしっかり話し合うことも必要。米国人とのコミュニケーションで一番感じるのは、相手の言うことに対して、「オレはちゃんとお前の話を聞いているよ」という姿勢を示すことです。自分の意見をしっかり述べる国だから余計に、その意見が無視されることに非常にナーバスになる。

その一方で、米国人と議論をしていていつも感心するのが、彼らが常に前向きであることです。根拠のない楽観主義にもつながるのでちょっと怖い部分もあるのですが、一つの議題を出すと、「こんなことは」「あんなことは」と、色んな生産的なアイデアを出してきます。No、ということはなるべくしない。相手の意見が変だと思っても、それを生産的なアクションにつなげていくにはどうしたらいいだろう、ということを常に考える。あまり過去を振り返らない。昔の過ちは過ちとして、未来を見ようとする。

日本では現在、突然噴き出してきた様々な問題に対して、議論という議論が全て機能不全に陥っている感じがします。原発を巡る「議論」を見ても、誰もが疑心暗鬼になっている中で、「お前の言っていることは嘘だ」「いや本当だ」という、嘘つき村の正直者を探すような状況になっている感じがする。そういう中で、これまた、人の意見を尊重する、なんていう謙虚さのかけらも持ち合わせていない政権担当者が、次々に頭ごなしに思いつきの政策を打ち出して人々を混乱に陥れる。ほとんどカフカの不条理な世界が現実になっているような。

日本をめぐる議論が、相手の意見に耳を傾け、しっかり目の前の現実を見据えた上で、将来の生産的なプランを作っていく本当の「議論」に収束していくのは一体いつになるのか、海の向こうからは、ただ憤慨したり心配したりすることしかできませんが、なんとかいい方向に進んでくれないか、と祈るばかりです。とにかくまず菅はさっさと辞めてくれ。