人間見た目が大事

人は見た目が9割」という本がベストセラーになっているそうで、この本を紹介している雑誌の書評を読む機会がありました。これは面白いテーマだと思うので、本も是非読んでみたいと思います。

人間のコミュニケーションにおいて、言語が占める割合は7%ぐらいしかなくて、残る93%は、「非言語=ノン・バーバルコミュニケーション」が占めている、という話は、以前にも誰かから聞いたことがあります。実際、会社にいて会議とかに出ていると、その場をまとめたり、方向性を決めていく人、というのは、話している内容よりも、声がいい、とか、押し出しがある、といった、別の要素に「力」を持っている人が多い気がする。

著者の竹内一郎さんは、脚本家の仕事もされているそうで、「同じ脚本でも、役者が変われば全然変わってくるんです」とおっしゃっていました。要するに、脚本=言葉が持っている力よりも、その役者さんがどういう形でその言葉を表現するか、という、「ノン・バーバルコミュニケーション」能力によって、作品が変わってきちゃうんですよね。

先日、今やっている「モンマルトルのすみれ」の一つのセリフについて、女房と激論。私が、「このセリフにはもっと切迫感があってしかるべきなんじゃないのか?」というと、女房が、「そこでそんなに切迫してしまったらいけないんだ」という。ではなぜ、そこに切迫感があってはいけないのか、という点について、女房と詰めていく。すると、そのセリフをどう料理するか、によって、その場の登場人物の関係性がすごく明確になってくるのだ、ということに二人して気付く。「だったら、このセリフに切迫感を加えるのはおかしいね。でも、今やってる料理の仕方だと、逆に関係性がぼやけてしまう。」そんな議論の果てに、セリフを吐く間や、セリフのトーンが定まっていく。

役者に与えられたセリフは、ただの言葉の羅列に過ぎません。これをきちんとした「セリフ」=表現するためのツールとして活用するには、言葉に書かれていない情報=「ノン・バーバルコミュニケーション」情報を付加していかないといけない。それが役者の仕事であるとするならば、脚本の仕事は7%に過ぎなくて、残る93%が、役者にゆだねられているんです。

歌の場合、その93%のうち、音の高低や強弱については楽譜が指定してきている。調性や和音という形で、雰囲気や感情までも指定されている。そういう指定をどこまで忠実に表現できるか、が、歌い手としての力量なんだけど、そもそも、楽譜からそういう情報をキチンと読み取れるか、というのも歌い手の力量。うちの女房はこの「譜読み」の能力に長けているので、毎日、「キミは本当に和音の感覚がないねぇ」と、呆れられております。こういうのも才能なんだよなぁ。

声の高低やセリフの間、といった、音による「非言語コミュニケーションツール」だけではなくって、立ち居振る舞い、姿勢のよしあしといった所作、あるいは、顔の表情や目の強さ、といった、視覚的な「非言語コミュニケーションツール」も、もちろんすごく大事。舞台だけの話じゃなくて、外見を変えることで、生き方そのものが変化していく、ということってのも、あると思う。別に、整形、なんていうような強引なやり方をしなくても、髪型を変える、とか、ファッションテイストを変える、とか、気軽にできる転換ってあると思うんです。髪形を変えてみたい人は、ガレリア座のヘアメイク担当、Mさんの美容室、「ラルテ」へ是非どうぞ。→http://www.larte.co.jp/

個人的に、結構生き方が変わったなぁ、と思うのは、ずっとしていたメガネをコンタクトに変えた頃です。ガレリア座に入って、舞台でメガネはできんだろう、と、思い切ってコンタクトにしてみた。もともと割と人より目が大きい人間だったんですが、それまで、近眼用のメガネのせいで、目が小さく見えていたんですね。割とショボい印象を人に与えていたんだけど、コンタクトにして、目が大きく見えるようになったら、多少なり、自分に自信も出てきたような気がしています。

「目ヂカラ」という言葉を、よく女房と使うのだけど、「目は口ほどに物を言う」ってのはほんとだと思います。逆に、「口ほどに物を言う目を持っているヒト」というのは、それだけでかなり得をしていると思う。別に意味もなくぼんやり見ているだけで、「何?何か用?」なんて聞かれることもあったり、「アイツは絶対オレに気がある。あの目つきはそうに違いない」なんて誤解されることもあるから、損もしているかもしれないが。

ウチの娘も、親に似て、やたらに目がでかいんですが、女房がさらに、「上目遣いでパパの方を見てご覧」なんて、「目ヂカラ」を鍛える訓練を施している。で、娘に上目遣いでもって、「パパ大好き」なんていわれると、パパはでろでろに溶けてしまうわけです。こういう手管を訓練されているこの娘の将来が不安である。