先週の金曜日、大田区民オペラ合唱団でお世話になっている山口悠紀子先生のリサイタルに出かけました。大田文化の森ホールでのリサイタルです。200席を超えるホールの客席はほぼ満席。端整でありながら、温かい雰囲気の、とてもいい演奏会でした。
自分の先生に対して失礼な言い方になってしまうかもしれませんけど、もっといい歌い手や、もっといい演奏家の、素晴らしい演奏会は沢山あると思います。技術的な部分、取り上げた曲の構成や演奏会としての進行、あるいは表現者としてのオーラ・・・色んな点で、もっとすごい存在感を持った歌い手さんや、ピアニストは沢山いると思う。でも、このお二人の演奏会から得られた満足感というのは、決してそういう偉大なパフォーマの演奏会に引けを取るものじゃない。私としてもものすごく勉強になったし、多くの刺激を得られた演奏会でした。
まず、山口悠紀子さん、という歌い手ご自身が、歌い手としては長く一線を退いてらっしゃって、還暦を過ぎて(なんて年齢をばらしてしまうと怒られそうだけど)、歌手デビューされた、という背景を知っているからこそ、感じるものがありました。ご自身もおっしゃっていましたけど、ほとんど新人歌手のように、表現の一つ一つが試行錯誤で、「この音はこういうフォームで対応できるかな?」「これも大丈夫かな?」という手探りの結果だったそうです。そういうチャレンジの末に出てきた声の色合いの多彩さと、テクニックの確かさ。正直、生硬な部分もないわけじゃないのだけど、極めて知的にコントロールされ、計算された表現。色んなところで、「そうか、そうやるのか」という発見や、「そこまでやっちゃうのか」という驚きが一杯あった。
一方で、計算された知的な表現だから、ちょっと面白みに欠ける、という側面がないわけじゃありません。でも、そういうパフォーマンスとしての生硬さを補って余りあったのが、会場全体を包み込む、客席の温かさ。客席全体が、そういう悠紀子先生の奮闘を心から応援し、共感し、見守りながら、出てくる表現の一つ一つに感動している空気。
アンコールに、客席にいらっしゃったご友人のお誕生日に、と、「浜辺の歌」を歌われましたけど、客席全体が、そういう悠紀子先生のご友人であり、悠紀子先生に教わったお弟子さんであり、悠紀子先生と共にオペラを作ってきた仲間であり、同志なんですね。そういう人たちにとって、悠紀子先生のチャレンジ、というのは、自分たち自身に勇気や元気をくれるもの。そういう沢山の人たちの応援に対して、見事に応えていく、応えることができるテクニック。
そのテクニックは、長い指導者生活の中で維持され、自分の中で醸成されてきたものなんだろうな、と思います。指導者としては一流だけど、パフォーマとしては二流、という人は結構多くて、そういう意味でも、ずっと指導者だった悠紀子先生が、パフォーマに転向する、というのはものすごく大きなチャレンジだったはず。そのチャレンジを見守る人々が、会場の客席を埋めた、というのは、悠紀子先生という人が重ねてきた人の輪の厚みだ、と思います。
共演者の平野満さん、という方は、MCの中でご自分の年齢をおっしゃっていて、私と同い年と伺って愕然とする。最初のうち、パンフレットに書いてあった略歴を見ないでピアノの音だけを聞いて、ひょっとして、と思ったら、やっぱり、作曲科を出られた方でした。不思議なんだけど、作曲科出身の方のピアノっていうのは割と特徴的な気がしていて、それは女房も同じことを言っていた。女房の言葉を借りると「作曲科の人ってのはバンバン弾くからねぇ」とのこと。一つ一つの音の音色、という点で言うと、ちょっと粗い音で、粒がきれいに立っていない音、という感じがしたりする。でも、全体の曲の構成とかがすごくよく見える、極めて知的なピアノ。
「蝶々夫人」や、マスカーニの「イリス」の印象的な場面を、平野さんご自身が編曲された、という曲を弾かれたのですけど、オペラの場面をドラマティックに表現する、というよりも、一種観念的に、絵画のように印象的に切り取った編曲・・・という感じがしました。「ある晴れた日に」の旋律が、まさに蝶々のはかない羽ばたきのような細かいアルペジオに彩られて流れてくると、その場面が一種美しい静止画のように目の前に広がるような。最後に弾かれた「キラキラ星協奏曲」も、すごく知的で、曲の構成が見事に浮き上がってくる演奏。
お二人とも、舞台上で展開されたパフォーマンスは、ものすごく知的で洗練された表現で、それを見守っている聴衆は悠紀子先生の長年のファン、という・・・一言でまとめてしまえば、「知性と人情」、という一種ミスマッチな組み合わせ。その組み合わせから来る、ちょっと不思議な充実感と高揚感を抱えて、会場を後にしました。これからも悠紀子先生のチャレンジを、及ばずながら応援していきたいと思います。