心優しい人が日本をダメにする

公演も終わって呆けておりますと、いろいろとどうでもいいことが頭をよぎります。ということで、今日はちょっと最近の日本を憂いてみたりして。

日本を滅ぼすのは、心優しい多数派の人たちと、死んだら仏になる、という浄化思想じゃないかな、というのを最近ふと思い始めた。そう考えたら、ちょっと前に尼崎で起こった大量殺人事件の構造が自分なりに理解できた気がしたんですね。さぁ、この話ちゃんとまとまるのかなー、大丈夫かなー。

日本人というのは人前で自分の意見をしっかり言うのが苦手だ、というのはよく言われることなんですけど、もう一つ困った性質があって、はっきり表明された意見を何とか実現しようとする心優しさがある気がする。それは、心優しさ、ということだけじゃなく、大きな声で主張されると、それに反論したりその声の主を黙らせたりするのがすごく面倒で疲れる、という意識が働く、という要素もあると思う。結局日本人というのは、大声で主張をぶつけあう、ということに対して非常にストレスを感じてしまう民族なので、誰かが大声で主張すると、なんとかその主張を汲んで、「丸く収めよう」とする。

昔はそれでも、理不尽な大声に対して、「お前は間違っている」とはっきり理を語る権威があった。第二次大戦まで残っていた身分制の下では、大声を出すこと自体、一部の特権階級にのみ許された行為だったし、農民のような身分が大声を出すと、それはその是非にかかわらず死罪につながる大罪でした。だからこそかつての農民一揆は、誰が首謀者かわからない傘連判や、全員が頬かむりをした無名性の形で実現したわけで、たくさんの人々の中で大きな声で自分の主張をする、ということ自体、非常に勇気のいることだった。

第二次大戦後の民主化の中で、こういった「権威」は否定され、誰もが大きな声を出す権利を得ます。その中でもわずかに、国家官僚やマスコミなどが、国家エリートとして、国のリーダーシップをとる特権を確保しようとしますが、エリート育成ではなく全体の学力の底上げを目指した戦後教育によってエリートの質も劣化、国家官僚もマスコミも、国を導く権威としての地位を失ってしまう。

人前で大きな声で何かを主張することには、それなりの責任と義務が生じるのだ、とか、そういう責任と義務を果たしている人が発する声を互いに尊重するのが民主主義だ、という認識が共有されていればいいのだけど、ねたみとひがみが国民性の根底にある日本では、「大きな声を出す恵まれた人」を寄ってたかってつぶそうとする。そしてまた、そういう「恵まれた人」=責任や義務を承知している人は、そういう非難に対してムキになって反論することを潔しとしないから、そのままつぶされてしまうか、沈黙を守ることになる。

となると、この国で生き残るのは、責任や義務を抱えることなく、ただ言いっぱなしに大きな声を出す恵まれない人の意見、ということになる。すごく乱暴な言い方をすれば、頭の悪い声のでかい人が言う主張が、一番通りやすい、ということ。

会社とかならまだ、上司部下、という関係があるので我慢できることもあるんだけど、そういう上下関係のないグループ討議みたいなのをやっている時に、「こいつ馬鹿じゃねーか」と思うような空気を読めない人の素っ頓狂な意見を一生懸命取り入れて、「丸く収める」ために、みんなで必死に知恵を絞る、という構図が結構繰り返されている気がするんですよね。そういう形で自分の意見が通ることを知った頭の悪い人は、その後もずっと大きな声を上げ続ける。そして周りの心優しい人たちが、必死にそのとんでもない意見を現実化するために汗をかく。

「あいつうざいよねぇ」と、飲み会でその人がいない時なんかには話題になるんだけど、表立っては誰も口を開かない。ぎゃーぎゃー喚いているその「一人」を何とか黙らせるためにみんなで必死に知恵を絞る。周りが無視してしまおうとすると、「いじめだ」と弾劾されたりする。どうにも黙らせることができなくなって、みんななんだか脳死状態のような無抵抗状態になって、その大きな声に従うしかなくなる、というのが最悪な状態。

そういう状況が、尼崎のあのおばちゃんを相手に、心優しい人たちが陥ってしまった状況なんじゃないか、と思う。どんなに理不尽でも、どんなに無茶苦茶でも、大きな声で繰り返し繰り返し言い続ければいい。そうすれば必ず誰か、心優しい人がそれを実現しようと汗をかいてくれる。

でもねぇ、その優しさって、国を滅ぼすと思うんだよね。日本全体が、尼崎のあのコミュニティのように内部崩壊していく気がしてならない。自分の責任も義務も認識せず、刹那的な感情だけで発せられる言葉を現実化していくことは、方向も何も定めずにでたらめにアクセル全開で走る車のように危険なことだと思う。

もう一つ、言いたいことを言いまくったあげくに、事態が収拾不能になると、咎められた人間が自殺する、っていうのが日本のもう一つの悪癖だと思う。先日亡くなった土井たか子さんを売国奴と評した人に対し、「死んだ人はみな浄化されるのにひどいことを言うな」みたいなことを言っていた人がいたけど、そういう思想が、「死ねばみんな許してくれる」みたいな勘違いになる。佐世保で同級生殺した女子高生のお父さんが自殺したのも、それこそ尼崎のおばちゃんが牢獄で死んだのも、そういう浄化作用への勘違い。

それって、究極の責任放棄で、いざとなったら死ねばいいんだろ、くらいの感覚(それもさほど深刻に考えるほどの思慮もない)で、思うがままに言いたいことを言う人が結局最強、という構造を作る。そういう状況が本当に国を滅ぼしかけたのが民主党政権下の東日本大震災で、福島に乗り込んだあのおっさんがぎゃーぎゃー言いたいことを喚いていた瞬間だと思う。このままだと何が起こるかをしっかり見極めていた現場の担当者がいなければ、この国は本当に滅んでいたかもしれない。

人前で大きな声で何かを主張することは、主張する人自身に責任と義務を生じる、なんてことを、大きな声でしゃべっても許されるということを知ってしまった頭の悪い人たちに理解させることは無理な話。でも一方で、大きな声で喚く頭の悪い人たちの声を、力のある人が「黙れ!」というと、黙れ、と言った方が責められる、というのが、この国の構造で・・・さて、どうやってこの国で心安らかに生きていけばいいんですかねー。わー、言いっぱなしで結論なくて全然義務も責任も果たしてないじゃねーかー。