Fちゃんは本当にすごい

1週間、全然日記が更新できずにおりました。例によって忙しすぎて・・・色々とあったインプット、ちょっとまとめておきます。
 
・「美しきエレーヌ」の練習がかなり面白くなってきました。一通りの音取りと、日本語の訳詞の吟味が終わり、与えられた歌のフレーズのイメージをふくらませていく作業に入っています。登場人物のキャラクター作りや、場面の分析と、曲の構成とをすり合わせていく作業。「曲がこうなっているのなら、ここの芝居はこれしかありえない」という決まり方もあれば、「ここはこういう芝居になるはずだから、こう歌わないと」という決まり方もある。双方から生まれてくるイメージが多様であればあるほど、演じる側の工夫や作り方の選択の幅が広がってくる。こうやってみよう、ああやってみたら、という試行錯誤が、とっても楽しい。

・読書はちょっとマニアックな世界に入り込みたい気分で、ちくま文庫の「海野十三集」やら、ドラキュラ学の本なんかを読んでました。マニアな世界だ。現在、高橋克彦さんの「火怨」を読み進んでます。「炎立つ」の姉妹編と言ってもいいくらいテイストがそっくり。当たり前っていえば当たり前なんだけど。

産経新聞の「ひなちゃんの日常」のファンだ、という話を私の実家にしたら、実家の母が、過去のバックナンバーを切り抜いて送ってきてくれました。なんか、単行本も出ているらしい、という話で、購入するしかないだろう、という気分になっている。

・「ちりとてちん」、とうとう草若師匠が逝っちゃいましたねぇ・・・しかし、弟子の会の映像が流れると、一番落語が上手、という設定になっているはずの草々さんの落語が一番面白くないんだよなぁ・・・こればっかりはドラマの作りだから仕方ない、とは思うんだけど、草原兄さんが落語が上手なのは当然として、小草若さんも四草さんもすごく達者で、さらに若狭さんも無茶苦茶上手なので、余計に草々さんの不器用さが際立つ。不器用なこと自体はこの役者さんの魅力で、決して悪いことではないのだけど、こと落語という芸事になってしまうと厳しいところがあるよね・・・

・バレンタインデーには女房からバッグと、娘からネクタイをもらいました。ガレリア座のお稽古道具を持っていくカバンがいつも安っぽいコンビニバッグだったので、とってもウレシイ。娘は、パパにネクタイを選んであげる、ということ自体に憧れがあったらしくて、なかなか渋い柄のネクタイを選んでくれました。これもまたウレシイことであるよ。

・先々週末、銀座で開催されていた、笠松宏有画伯の展覧会を見に行く。以前の回顧展とは違う、もう少しこじんまりした展示スペースだったのですが、展示スペースが違うと絵の印象が全然違ってしまうことに驚く。絵との物理的距離は違わないはずなんですけど、より細部がくっきり見える気がしました。女房ともども大好きだった「曙光」という絵があって、人物の肩のところに宿っている夜明けの光がまぶしく印象に残る作品なんですが、遠目に見ていた印象と、近づいて見た印象が全然違うのにびっくり。あんなにまぶしく見えた肩越しの光の色が、近づいてみると全然明るくない、とても地味な色の絵の具で描かれていて、少し離れて見るとものすごく明るい光に見える。画家の色使いの魔法を見た思いがしました。

・女房は、昨日の日曜日、愛川町文化会館、という所で、エレクトーン2台を伴奏にした「第九」ソリストを務めてきました。このエレクトーン2台の伴奏がすごかったそうです。エレクトーン2台で、完全にフルオケの音を出してしまう(もちろん、パーカッションも完璧に再現)。その上に、各楽器の音量バランスなども、指揮者の要求に合わせて即座に変えてしまう。要するに、その場で楽器のプログラムをどんどん書き換えているんですね。それだけの演奏技術を持った方、というのは日本でも数少ないらしくて、女房は驚嘆しておりました。ものすごく刺激になった、とのことで、この女房の土産話は、また別の機会に書こうと思います。

・・・と並べたところで、今日は、先週の土曜日に調布教会でやった、「Fちゃんは天使になった」の朗読会のことを書きます。
 
すごく正直なことを言えば、「Fちゃんは天使になった」というお話については、自分の中でうまく消化しきれないでいる・・・という気がしていました。お話を書く人間というのは因果なもので、自分が書いたお話というのはどんなお話であっても、なるべく沢山の人に読んでほしい、と思うものです。この「Fちゃんは天使になった」というお話にしてもそう。折角自費出版で、本という形にしたのだから、なるべく沢山の人に手にとってもらいたい。もともと、このお話は、自分の中で大きな衝撃だったFちゃんの帰天、という出来事を、自分自身の中できちんと受け止めるために書いた・・・そういう、「やむにやまれぬ気持ちで書いた」という経緯は別として、お話として出来上がってしまえば、多くの人にオレの作品を読んでほしい、と思ってしまうんです。

でもそれって、ものすごく嫌らしいことのような気がする。ある意味、娘の同級生が亡くなった、という出来事をネタにして、自分の作品を世間に広めようとする自己顕示欲じゃないのか、という気持ちが消えない。時々突っ走りそうになる私を、女房が、「それは嫌らしいことじゃないの?」と諌めて、思いとどまる、ということも何度かありました。

今回の「朗読会」というのも、自分の中では少し葛藤がありました。女房の実家の義母が小児科医なので、お付き合いのある保健婦さんたちに朗読してあげた、なんて話を聞いたりして、自分もこの作品を人前で朗読してみたい、という「自己顕示欲」が頭をもたげたのは確かだと思います。オレだったらもっと上手に朗読できる・・・なんていう嫌らしい気持ちとか、もっといえば、自分が調布市内で展開している朗読パフォーマンスやお芝居なんかの宣伝になる・・・なんてことだって、無意識の中で考えていたかもしれない・・・

そういう自分の中にあるヘンな色気に対する葛藤みたいなものは、朗読会の当日までずっと消えませんでした。そして何よりも、こういうパフォーマンスをやることを、Fちゃんのご家族が本当に喜んでくれるんだろうか、天国のFちゃんは本当に喜んでくれるだろうか・・・という疑問が、ずっと自分の中には残っていました。「三回忌に合わせて、みんなでFちゃんのことを思い出してあげよう」という、きれいな気持ちだって嘘じゃないとは思うのだけど、そういうきれいな部分と、自分の中にある嫌らしい部分とが、せめぎあっているような感覚。そういう迷いみたいなものをずっと抱えながら、土曜日を迎えた、というのが、正直なところです。

「偲ぶ会」には、生前のFちゃんの同級生と、その父兄を中心に、幼稚園の園長先生や担任だった先生方、それに、Fちゃんをご存知ない幼稚園関係者の方々や、我々夫婦の親友のC子さんまで、様々な方々にご参集いただきました。こちらが思っていたよりもずっと沢山の方々の中に、Fちゃんのことがきちんと根を下ろしていることにまず驚く。

お話を朗読している間、考えていたことは、上手に読もう、とか、いい声で読もう、とか、いつもの朗読パフォーマンスで考えるようなことは一切なくて、単純に、「最後まで泣かないで読もう」ということと、「最後には笑顔で読もう」ということだけでした。このお話を書いたのは、遺された我々が笑顔になれるように。それを、天国のFちゃんもきっと望んでいるはずだ、ということ。朗読していくうちに、「朗読の上手な私を見て!」なんていうような自己顕示欲とか、色んなヘンな思惑とか、そういう自分の中の汚れた部分がどんどん透き通ってきて、みんなが笑顔になれるように、みんなの心が開かれるように、と、そればっかりを考えながら読んでいたような気がします。

会場では、皆さんポロポロ涙をこぼしながら聞いてくださったのだけど、読み終えて、Fちゃんのお母様とお祖母さまが、私に、「Fも喜んでいると思います」とおっしゃって下さったのが、本当に嬉しかった。後半の追悼ミサの時、Fちゃんのお母様が涙ながらに代読された、Fちゃんのお父様の手紙に、「あのお話を読み終えて、とても温かい気持ちになれました」というお言葉が書かれていたのを聞いて、やっぱり書いてよかった、この本を作ってよかったんだ、と、初めてそんな気持ちになれました。

幼稚園の時、Fちゃんのご担任だった先生が、「Fちゃんが病を押して、応援に来てくれた運動会のことが忘れられない」というお話をされました。その運動会のことは、「Fちゃんは天使になった」という本の中の一つの大きなエピソードになっています。その先生のお話を聞きながら、「Fちゃんって、本当にすごい子供なんだなぁ」と、しみじみ思いました。

もしFちゃんが病気に負けて、少しでも長く生きるんだ、がんばるんだ、という気持ちを捨てて、あの運動会にも来てくれていなかったら、Fちゃんのことがこんなにみんなの心に残っただろうか。あの時、Fちゃんが、不自由な手で一生懸命、黄色いポンポンを振ってくれていなかったら、今我々がFちゃんを思い出したときに、「Fちゃんが応援してくれているんだから、頑張らなきゃ」という気持ちになれただろうか。

Fちゃんがその短い6年間の人生で残してくれたものが、沢山の人々の心をきれいに浄化してくれている。そんな気がします。私があのお話を書いたのは、そういうFちゃんの「浄化パワー」を、なるべく沢山の人たちに伝えるためであって、Fちゃんもきっと天国でそれを望んでくれている・・・そんなきれいな気持ちにやっとなれたような、そんな気がしています。そういう気持ちになれたことで、私自身の心も、Fちゃんがきれいに浄化してくれたんだな、と・・・

バカな話ですが、会場になる調布教会に着いて、駐車場に車を回した時、ふと見ると、構内に止まっていた軽自動車のナンバープレートが、私の車のナンバープレートと全く同じ4桁の番号でした。そんなことって滅多にないですよね。それを見たときに、「あ、これって、Fちゃんのいたずらだな」と思った。

バカな話かもしれないけど、でも私にとっては、Fちゃんが天国から、私のやっていることを、「いいんだよ、おじさんのやってることで、私もとっても喜んでいるんだからね」と言ってくれているような、そんな気持ちにさせてくれた、とても嬉しい出来事でした。一人でも多くの人々を笑顔にすること、きれいな気持ちにすること。それが人間の人生の価値であるとするならば、Fちゃんほど、沢山の人々の心をきれいにしてくれている子供は、そんなに多くはいない、本当にFちゃんは、すごい子供なんだなぁ、と、心から思わされた一日でした。