離人症的世界って、ひょっとしたら・・・

つい先日の日記で、P.K.ディックの描く世界が「離人症」の兆候を示している気がする、という話を書きました。その後、ひょっとして、ディックが一種の悪夢的未来図として描いた離人症的世界が、すごく身近に広がりつつあるんじゃないだろうか、という気分になってきた。一種のシンクロニシティなのだけど、今日はそんな、少し怖い話を。

そういう気分になった一つ目のきっかけは、例の佐世保の猟銃乱射事件です。どんな背景があったのか知らないけど、迷彩服を着て友人を猟銃で撃ち殺し、自分は教会の敷地内で自殺する、という展開自体に、人間とのコミュニケーションが取れなくなり、自分の頭の中だけで展開されるシミュレーションゲーム世界に乗っ取られてしまったかのような、一種の「離人症」的感覚が見え隠れする。自分や友人が存在する世界を、「こと」として実感あるものとして捉えられず、てんでばらばらにただ存在する「もの」の連なりとしてしか把握できない異常な感覚。

佐世保の事件は、一つの極端な例なのだけど、もう少し身近な話に近づけてみて、今朝のニュースの話。中高生の携帯所持率が98%、というニュースの中で、6割以上の中高生が、その携帯を、メールでしか使わず、ほとんど通話に使っていない、という統計結果が出たそうです。

コミュニケーションの一番の基礎は、実際に会って話すこと。相手の息遣い、視線の動き、表情の動きを感じ取りながら話すこと。それがかなわなくても、電話で声を聞きながら話すと、声のトーンや、間の取り方や、息遣いを感じ取ることができる。私は仕事柄、海外の方と電話やメールでやりとりすることが多いのですけど、メールを10本20本やりとりするより、1度の電話の方がはるかに話が通じるし、実際に出張してFace-to-faceで話をすると、ものすごく理解しあえる、という経験を何度もしています。メールはあくまで、コミュニケーションの「補助」にしかなりえないはずなんです。

「補助」であるはずのメールだけのやり取りの中で、文字と化してしまったコミュニケーション相手は、呼吸する人間、体温を持った人間として知覚することができない。人間としてではなく、まさに単なる「モノ」としてしか認識できない。メールでしかコミュニケーションをとろうとしないのはなぜ、と聞かれて、中高生が、「煩わしい」と答えている、というのがまさに象徴的で、要するに、コミュニケーションの相手を「人間」として捉え、その人間とのコミュニケーションを、「こと」として体験することが煩わしくなっている。単なる「もの」との付き合いにしておいた方が楽。携帯ゲームの中の登場人物みたいに接している方が楽・・・これってまさに、離人症的傾向っていえないだろうか。

先週の「ちりとてちん」のエピソード。落語をテープで練習していたお弟子さんが、その落語を高座にかけて、まるっきり受けない。師匠が、「テープで落語の『腹』が分かるか?」と諭します。「どんな間で、どんな顔で話したら客が笑うか、テープで分かるか?落語は人間から人間に伝えられてきたもんや。そして伝えていかんとあかんもんや・・・」

舞台芸術でも、客席のお客様との間の「対話」をきちんとする表現と、ただ一方的に自分の思いを客席にぶつける表現とでは、伝わり方がまるで違います。そういう「伝わっている」という実感を感じる舞台をやっている人間だからこそ、最近の日本社会の「離人症」的傾向には、なんだか薄ら寒い気分になる。

実は、そういう薄ら寒い気分になった一番のきっかけは、金曜日、娘の誕生日のお祝いに遊びに行ったディズニーランドでした。なんとかインフルエンザも治って、熱も収まったので、折角だからとでかけました。相変わらず楽しいアトラクションとショウ、パレードを楽しんで、娘は初めて、ビッグサンダーマウンテンにも乗りました。とっても楽しい一日でした。だったんだけどね。

駐車場からゲートに向かう途中、後ろの高校生カップルが、周り5メートル四方くらいに響き渡る大声で喋り、下品に馬鹿笑いしながら歩いている。ビッグサンダーマウンテンの行列では、前に並んだあんちゃんたちが手すりの上に何度も座り、連れの子供たちを怒鳴りつけている。建物の窓枠の外を見れば、梅干の種が干からびたのがおいてある。手すりにはゴミを包んでいたらしいラップが丸めて置いてある。床にポップコーンが撒き散らされても知らん顔。パレードを見る人の前で、突っ立ったままメールをしている高校生。行列に割り込んでくるおっさん・おばさんたち。そして、道を歩いている客たちの表情の下品さ・・・

以前の私の知っているディズニーランドは、キャストの方々のなりきりぶりは勿論、そこに集まったお客様も、自分たちも夢の世界の住人になっているような高揚した気分で、その場を楽しむ場でした。結果として、お客様の中にも、「この夢の国を汚しちゃいけない」というような、マナー意識の高まりもあった気がする。キャストの方々が必死にゴミ掃除をしなくても、お客様の方で自主的に、ゴミはなるべく散らかさない、列はきちんと並ぶ、といったマナーを守ることで、「夢の世界の住人」である自分を楽しむ、そんな場所だった気がします。

もう一つ、誤解を恐れずに言えば、ディズニーランドというのは結構敷居の高い遊び場でした。コストパフォーマンスが悪いんだね。雰囲気はとってもいいのだけど、1日かけてもせいぜい2つくらいのアトラクションしか乗れなかったりする。私も、昔のディズニーランドでは、3時間待ち行列の途中で雨に降られてボロボロ、なんていう経験もしました。結局、それなりに、「オカネと時間に余裕のある人たち」しか行けない、少し贅沢な遊び場というポジションにあった気がします。そういう「滅多に行けないハレの場所」だからこそ、自分たちもハレの気分で、この場所を大切にしなければ、という気分が醸成されていた気がする。

そう考えると、ファストパスの導入によって、ディズニーランドの質が下がった・・・ということもいえなくもないね。ファストパスによって、ディズニーランドの楽しみ方は格段に便利になって、コストパフォーマンスも上がった。結果として、中学生や高校生や、さほど余裕のない人たちにも手の届く遊び場になり、効率優先で客のマナーが悪くなった・・なんてことも言えるかもしれない。

でも、そういう客層の変化、という以上に、恐ろしくマナーの悪い人々を見ていると、そこに、周囲の人々の目を気にしない=意識できない、「離人症」的な精神状態が垣間見えた気がしたんです。周囲に自分たちがどう見えているか、という所に意識が及ばない。「みっともない」という言葉は、自分を含めた他者が、自分と同じ「人間」として存在する世界=社会を、自分がそこに属している「こと」として把握しなければ生まれてこないし、意識もされない言葉です。自分がどれだけみっともないことをしているか、みっともなく見えているか。日本人という国民は、そういうことを意識できない国民に成り下がりつつあるんじゃないだろうか。幕末の外国人が尊敬し、「貧しいけれど心の美しい人々」と賛美した日本人は、どこまで醜い国民になってしまったんでしょうか。その流れを断ち切ることはできるんでしょうか・・・そんなことを考えて、なんだかとても寂しい気分になってしまった、週末のディズニーランドでした。