「火星のタイム・スリップ」〜離人症的世界〜

以前読んだ本に、木村敏先生の「時間と自己」という本があり、これが非常に知的興奮に充ちた本でした。離人症という精神症例において、時間感覚や存在への実感が希薄になる、という現象が起こる。そこで起こっていることを分析すると、人間が世界を把握するにあたっては、単に客観的な物体を物体として把握するだけでは足りない、ということが分かる。物体が物体として存在している場。その物体を認識している自己。その場に流れる時間・・・そういった事象の総体を把握しなければ、何が起こっているのかをきちんと認識することができない。正常な精神は、無意識のうちに、そういう世界の把握を行っている。木村先生はそれを、「もの」=目の前にある現実体、と、「こと」=事象の状態や事象がイメージされる前の感覚の総体、という簡潔な言葉で表現されています。「ことはものに現れ、ことはものを表し、ものからことが読みとれる」・・・全ての「もの」は、「こと」を通して把握されており、すべての「もの」から「こと」が表現されている。「ものごと」を把握するには、「もの」と「こと」の両方と、その関係性を総体として把握しなければいけない。

自分がこの議論に惹かれるのは、私のやっている舞台表現というのがまさに、「こと」経験の究極表現だから。二度と再現できない、その場限りの、一期一会の時間と空間の共有経験。「もの」をいくら積み上げても得られることのない、極めて濃密な時間経験。そういう強烈な「こと」経験を重ねているから、離人症の患者さんが、「こと」の把握ができない、なんて話を聞くと、すごく興味が湧く。離人症の患者さんにとって、目の前に起こる現実は、常に非連続的な「もの」としてしか把握されない。過去の「もの」と、現在の「もの」と、未来の「もの」が、連続した同一体として認識できない。結果として、その「もの」がそこに存在している「こと」として認識できず、その「こと」の中に包含されている「自己」そのものの認識が危うくなってしまう。

P.K.ディックの「火星のタイム・スリップ」(先日の日記で、間違えて、「火星のタイム・トリップ」って書いちゃった。ごめんなさい)を読了して、これってまさに、ディック自身の離人症体験の小説じゃん、と思ってしまった。一種の精神症例を示した本として専門家が読んでも、中々面白いんじゃないかなぁ。(以後、ネタバレ表現が出てきますので、未読の方はご注意ください。)

筋立てよりもなによりも、マンフレッド少年の目から見た、時間感覚が完全に崩壊した世界の描写に圧倒される。時間感覚が失われた分裂症(離人症)のマンフレッド少年の目には、現在生きている人間の中に、将来その人間が至る滅びの姿が全て見える。人間を見ても、腐乱死体としか見えない。全てのものが、破滅と破壊の果てに醜いむくろをさらす、その最後の姿と二重写しに見えてしまう。

離人症における時間感覚の崩壊と、「時間から自由になる」ということは全然別なんだけど、そこをSFっぽく、その少年が、分裂症の副産物として、過去・現在・未来を自由に行き来できる能力を身につけた、という設定を持ち込んでいる。そこがSFっぽい=大衆小説っぽい、とは思うのだけど、そこで終わらないところがディックの恐ろしさ。時間を自由にできる、という少年の特殊能力をもってしても、世界はひたすら、崩壊と破滅という限りないエントロピーの増大に向かっていくしかない。「ガブル」と「ガビッシュ」によって世界が覆われていくのを止める手だてはない。時間から自由になったマンフレッド老人が、醜悪な半機械人間となって立ち現れるに至って、読者は最後の希望=「同じ時間感覚を持つ火星の先住民族と、マンフレッド少年の幸福な未来」というハッピーエンドからも突き放されてしまう。まさしくディック的悪夢の世界。

ディックの小説はいくつか読んでいますが、「そうか、ディックって『離人症』だったのか」と思うと、なんとなくその作品群に共通する混濁しきった世界観が理解できる気がしました。とにかくどの小説も後味が無茶苦茶悪い。幻想と現実が同価値で入り混じり、登場人物たち(あるいは読者、ひょっとしたら作者自身まで)を飲み込んで、その自己がじわじわと破壊されていく過程を見せられているような。その悪夢的世界が、悪夢であるが故に、読者の持っている常識的な世界観や秩序の組み換えを迫る。そういうトリップ感覚って、一種、ゴッホの絵に通じる感じがする。こんな風に世界が見えてしまう人がいるのか、という驚きや、不快感や、恐怖感。異世界との出会いがもたらすSense Of WonderがSFの真髄というのなら、これぞまさに心理的SF。

1964年に、こういうSF小説が書かれていた・・・ていうのがすごいと思う。今読んでも全然古臭さを感じない。ディック作品を全部読破したわけじゃないし、すごく刺激的な作品が多い・・・とは思っているのだけど、集中して読むと、ちょっと精神を病みそうな気がする。自分が十分に精神的に安定している時期を慎重に見極めながら、ディックの別の作品にもトライしていこうと思います。読むと頭がおかしくなりそうな小説・・・って、夢野久作の「ドグラ・マグラ」みたいだけど、ディックに比べると夢野久作の方がよっぽど精神的に健全だなぁ・・・