藤原伊織さんの「蚊トンボ白鬚の冒険」を読了。藤原流ハードボイルドファンタジーを楽しんだのだけど、読後感はあんまり爽快じゃないなぁ。予定調和的なエンディングじゃなかったせいもあるけどね。ただ、藤原さんの小説に出てくる登場人物の「美学」というか、生き様・死に様には憬れる部分が多い。不器用だけれど自分に誠実な生き方を貫く魅力的なキャラクターたち。脇役から悪役に至るまで、その美学が徹底していて、そこが藤原作品の最大の魅力。
基本設定である、「異生物の寄生によって普通の人がスーパーマンになる」という部分は、昔からSFでしょっちゅう取り上げられていた設定ですよね。「地球の長い午後」のアミガサとか・・・でもそこで、何かしら超常的な異生物じゃなくって、「蚊トンボ」という情けない生き物を使うところが、いかにも藤原さんらしい。
色んな意味で、藤原作品らしい作品・・・と思うのだけど、ここでは、この「シラヒゲ」くんと達夫という主人公のコンビが、岩明均の「寄生獣」における、「ミギー」と新一のコンビに酷似していることを取り上げたいと思います。このポイントについては、解説でもさらりと触れられていたけど、さらりと流すには類似点が多すぎる。藤原さんが「寄生獣」にインスパイアされたのは確かじゃないかな、と想像。もちろん、「寄生獣」がSFホラーであるのに対して、「蚊トンボ」はあくまでハードボイルドである、という、大筋の物語は全く異なりますが。
マンガからインスパイアされた小説、といえば、鷺沢萌さんが、吉田秋生さんの「川よりも長くゆるやかに」にインスパイアされて、デビュー作の「川べりの道」を書いた、というのが有名な話。こんな風に話題になったものは別としても、現代の作家は多かれ少なかれ、マンガの影響を除いて小説を書くことはできなくなっているのじゃないかな、という気がします。
マンガ、といえば、小説にとっては色んな意味で天敵のような存在。そうなのだけど、以前の文脈では、小説という、「より上等」、あるいは「より高級」なエンターテイメントを、マンガという「より下等」、あるいは「より下級」なエンターテイメントが駆逐する・・・という文脈で語られることが多かった気がする。マンガによって、長文の活字を読むことができなくなった読者が、小説という表現形態に耐えられなくなる・・・という文脈。読者が「マンガしか読めなくなる」という言葉自体、読者側の能力の低下=マンガという「下等」「下級」なエンターテイメントしか受け入れられなくなる、と言い換えることができる。つまりは、小説よりもマンガはあくまで低位の表現形態である、という前提。小説は芸術たりえるが、マンガは芸術か、と言われると、今でも首を傾げる人は多いと思う。
でも、ここで、一つの視点として、「物語創造力」という言葉を造語してみます。TVドラマ、映画、小説、舞台、そしてマンガ。これらのメディアの持つ一つの重要な機能は、物語をつづり、人々に伝えていく、という機能です。そういう「物語を生み出していく」力と、「それを人に伝えていく」力を、「物語創造力」と名づけた時、今の日本において最も「物語創造力」を持っているメディアは、マンガなのじゃないかな、という気がする。最も豊穣で新鮮味あふれた、最も「エッジの立った」物語を供給しているメディアとしてのマンガ。だからこそ、マンガからインスパイアされた小説が生まれてくる。
いろんな少年誌に連載されているマンガを見ても、その豊穣かつ奔放な想像力と、壮大な世界観に圧倒されることが多々ある。小説が原作のドラマよりも、マンガが原作のドラマの方が次第に多くなっているという現実を見ても、マンガが語る物語の圧倒的な力を感じる。日本において、「物語創造」の最前線は、マンガにあるのかもしれない。そう思うと、「寄生獣」から「蚊トンボ」を生み出した藤原伊織さんが、デビュー前にはマンガの原作を書いていたこともある、という経歴自体、象徴的な事柄に見えてくるじゃないか。
以前、宮部みゆきさんが何かのインタビューで、「マンガは怖いですよ」という話をされていたことがあったように思います。「小説がマンガ以上のエンターテイメントを提供できるのか、ということはすごく考えます」というようなことをおっしゃっていた。宮部さんの頭の中で、マンガは、「小説という上級なメディアを駆逐する下級なメディア」としてではなく、「小説よりも強力なパワーを持つライバルメディア」として認識されている。絵と文字、という二つのツールを駆使しながら、新鮮でパワフルな物語を大量に供給し続けるマンガ・・・最近あんまりマンガの新作に触れていないのだけど、ちょっとまた話題作を漁ってみようかな。