「ゴースト・ストーリー」〜絶対的悪〜

例によって図書館をふらついていて、なんとなく手にとったピーター・ストラウブの「ゴースト・ストーリー」を先日読了。それなりに面白かった。面白かったんだけどね。ちょっと疑問も沸いてきた。この本の解説にもあったのだけど、よく、「モダン・ホラー」という言葉を耳にします。ネットで調べてみても、「モダン・ホラー」ってなんなの、という定義づけの文章が見当たらない。一体「モダン・ホラー」ってなんなのだろう?

色々とネットサーフしてみると、どうも、もともと「ゴシック・ホラー」あるいは「ゴシック小説」というジャンルがあって、それに対する概念として「モダン・ホラー」という言葉が使われているようですね。「ゴシック・ホラー」の代表作とされるのが、ブラム・ストーカの「ドラキュラ」で、メアリー・シェリーの「フランケンシュタインの怪物」ポーの「アッシャー家の崩壊」など。Wikipediaによれば、「ゴシック小説定番のモチーフは、怪奇現象、宿命、古い館、廃墟、幽霊などである。」と書かれていて、なるほどねーと思った。

ストラウブの「ゴースト・ストーリー」にせよ、モダンホラーの代表選手であるスティーブン・キングにせよ、ゴシック小説のモチーフからは離れた現代的な恐怖を表現している。そういう意味で確かに「モダン」ではある。でも、ストラウブの「ゴースト・ストーリー」を読むと、各所にゴシック・ホラーのモチーフや過去の傑作に対するオマージュが捧げられていることに気づく。以下、ネタバレ記述があるので未読の方はご注意ください。

狼男、女吸血鬼、というメイン・テーマは、まさにゴシック・ホラーの生み出したモンスターだし、女吸血鬼の描写には、レ・ファニュの傑作、「吸血鬼カミーラ」の影が見え隠れします。女吸血鬼が同じイニシャルの名前にこだわる、というところなんかまさにカミーラ。ゴシック・ホラーへのオマージュは、物語の中の物語として入れ子的に語られる怪談が、ヘンリ・ジェイムズの名作「ねじの回転」に酷似していることでもはっきり現れる。それは、主人公たちが敵対する悪の勢力の普遍性を示す一つの仕掛けになっているのだけど、作家の創作プロセスの一つの鍵にもなっていて面白い。

そう思って読むと、この「ゴースト・ストーリー」、古今東西の各種ホラーものがところどころに散りばめられていて、ホラーファンの作家が書いたホラー小説、という感じがすごくします。キングの名作「キャリー」への言及や、ゾンビ映画の金字塔「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」が戦いの舞台とシンクロするシーンなど。ある意味、古今東西のホラーものをてんこ盛りにぶち込んで、一つのストーリでまとめてみました、といった趣向。

でもどこかで、西洋風だなぁ、と思うのは、「善と悪」という二元論の中に収束していくその世界観。狼男にしても女吸血鬼にしても、人間存在を全否定する絶対的な「悪」として描かれる。そのあたりが、日本の怪談と一線を引くところだし、私自身の好みで言うと、なんとなく違和感を感じるところだったりする。

キングのホラー小説なんかもそうなんだけど、「悪」が、吸血鬼であったり、あるいは太古の昔から存在しているラブクラフト的な異生物であったりしても、その「悪」は、人間存在そのもの、あるいは人間存在の中にある善的なものを破壊する明確な意図を持っている。そういう強烈な「悪意」の存在と、それによる自分自身の消滅への恐怖が、恐怖感の源泉になっている。「ミザリー」における狂信的なファンにしても、その存在は人間存在に対する「悪意」そのものでした。

一方で、一緒に借りてきた、岡本綺堂の怪談集を続けて読んでいるのだけど、そこに出てくる怪異や恐怖は、「善」や「悪」といった価値判断を超越している。そういう人間の価値観を超えた超越的なものの気まぐれによって、人間が翻弄される姿が恐怖感を呼ぶとしても、そこには「絶対的な悪」というものが存在していない。小泉八雲の「むじな」なんかも代表的なものだけど、日本の怪談に出てくる怪異には、「何がなんでも人間そのものを消滅させてやろう」というような強烈な悪意がない。そこらじゅうに遍在している神霊的な存在が、ある時気まぐれに、あるいは人間の愚かな行為に対する復讐として牙をむく。でもそこには、常に人を害しようとする悪意はなくって、むしろそういう神霊たちと上手に共存している人々には、恵みをもたらしてくれたりする。もちろん、日本の怪談にもそういう強烈な悪意が表現されることもあるけれど、それはどちらかというと、人間と人間の間の憎悪だったりするんだよね。

欧米のキリスト教的価値観と、日本的多神教的価値観の相違、といえばそれまでなのだけど、こうやって東西のホラーのあり方の違い、みたいなよくある精神文化論を書いていると、最近そうでもないのかな、という気がしてくる。最近、欧米では、日本や韓国のホラー映画を愛する人たちが増えていて、その一方で、日本で製作されたり発表されたりするホラー映画やホラー小説が、人間存在を抹殺しようとする絶対的な悪の存在を前提にしたものが出てきているんじゃないかな、という気がする。別にアカデミックに分析したわけじゃないので、単なる個人的な感想なのだけど、少年漫画の世界なんかをちらちら覗いてみると、諸星大二郎妖怪ハンターシリーズが描き出す、神話の外にはじき出された邪神たちの系図やら、荒木飛呂彦の「ジョジョの奇妙な冒険」のシリーズとか、人間存在に対する絶対的な対立存在が描かれるシーンが多い気がする。こういう私の感想っていうのは、どっちかというとオウム真理教事件とか、神戸の震災を経て、圧倒的な不条理や圧倒的な悪意がこの世に存在することを我々が認識してしまった・・・という歴史的背景から来ているのかもしれないけど。

要するにそれって、日本という場所において、先日も書いた「地霊」の力が弱まっていることを示しているのかもしれないな、などと、連想は広がる。人間自身の力がどんどん強まっていき、それぞれの土地やそれぞれの人々を守っている守護霊の力がどんどん弱まっていく。一方で、人間の力の強大化に比例するように、人間存在を抹殺しようとする悪の力もどんどん強くなってくる。もう既に、地霊の力ではとてもとどめようがないくらいに、人間自体の力も強くなっていて、それに対する悪意の力も強くなっている。村上春樹の「神の子供たちはみな踊る」の中で、かえるくんが戦ったみみずくんのように。あの物語の中で、かえるくんは人間に味方してくれたけど、人間自身が自分を守ってくれる地霊や守護霊を破壊し続けているとするなら、人間自身を善と言い切っていいものなのかどうか・・・

水木しげるさんが、「妖怪が幸せに生きている世界というのは、人間も幸せに生きている平和な世界なんだ」というようなことをおっしゃっているのを、TVで見たことがあります。人間(=善?)なる存在と、それに相対する絶対的な悪の二元論へと、日本人の精神世界が次第に変貌していっていないか。妖怪や地霊という存在は、そういう二元論の隙間にあって、人間と自然の間の緩衝材になってくれる存在だったはずなのに。妖怪=地霊が幸福に生きていたかつての世界。時々、調子に乗った人間のやりすぎを諌めてくれたかつての世界。そういう世界には「絶対的悪」なんか存在しなくて、ただ世界の中の小さな一こまとしての、人間と霊的な存在が同じ価値を持って共存していた。そういう静かな世界観を背景にした、穏やかな怪奇小説の方が、個人的には好みなんですけどねぇ。