「取り替え子(チェンジリング)」〜あり得ないものの共存〜

ワイドショー的スキャンダルと芸術、私小説と神話・・・大江健三郎の「取り替え子」は、そういうあり得ない要素が共存している。・・・便所の落書きと言われる2チャンネルの中に、突然目を見張るほど美しいヴィジョンが浮かび上がってきたような・・・

近親者の死、というイベントを、自分の中で「納得」させ、自分の中に取り込むこと。誰もが乗り越えなければならない人生の節目。私の兄は、父親の死に直面して歴史小説を書くようになりましたし、私自身、娘の親友の死、という出来事に対して、一つのファンタジーを書くことでそれを自分の中に「落とし込もう」としました。

でも、大江健三郎という巨人が直面した近親者=伊丹十三の死は、決して通常の文法で語ることができるようなものではなかった。飛び降り自殺という極めてスキャンダラスな死。さらに、その人が、大江健三郎自身の精神的な支柱といえるほどに大きな存在であり、紛れもない一個の天才であった、という事実。その巨大な喪失感と、残された者の精神をズタズタにする異常な状況にあって、大江健三郎という天才は、「小説」という自らの武器によって、自分自身を取り戻そうとする。まさにその苦悩と葛藤の過程が、大江健三郎らしい生々しさと猥雑さ、そしてそれを超えた聖なるものとの邂逅として描かれる。

ワイドショー的スキャンダルから輝かしい再生と希望の未来へ。極私的体験から普遍的神話世界へ・・・自分自身の再生への苦闘を、血まみれの手のひらで書きなぐっているようなリアリティの中で語られるファンタジー。そのファンタジーの強烈なイメージ、繰り返し繰り返し語られる死と再生の物語、そして、一人の人間の中にある複数の生=「取り替え子」というモチーフを得て、一人の偉大な天才の死は、一つの命が生きる複数の生の一つの終わりに過ぎないこと、終わりであり、新たな命の始まりであることが高らかに宣言される。

非常に複雑な構造・・・大江健三郎の私的体験、一人一人の登場人物(マスメディアの上で無責任なコメントを振りまくコメンテーターに至るまで)に、具体的なモデルが存在している「モデル小説」「スキャンダル小説」としてのリアリティが、現実とも虚構ともつかない様々な小説的仕掛けによってファンタジーへと昇華していく。その小説的な仕掛けの一つ一つに、死と再生の神話的エピソードが挿入されていく。部分が全体を語り、全体が部分を語るフォログラフィー的構造。私のようなものがざっと一読したくらいで、この本のことを語りつくすことなど絶対に不可能で、たぶん無数の論文が書けるんじゃないか、と思わせるような、知的興奮に充ちた一冊でした。こんな小説、他の誰が書けるっていうんだ。

読むのには相当エネルギーが必要な本で、読了するまでに随分時間がかかってしまったのですが、この後で読んだ、井沢元彦さんの「GEN 源氏物語秘録」は1日で読了。これがまたちょっと面白い読み合わせになっていて、どちらの本も、一つの大きなテーマとして、「天皇制」ということを置いている。敗戦、という経験の中で、当時の日本人が全国民一丸となって作り上げた、「天皇制」を基礎とする一つの精神世界が、徹底的に破壊される。つまりは、その時点で、日本は一旦、完全に精神的に死んでしまった。戦後日本の生活が、「取り替え子」の第二の人生である・・・死んだ牛の皮をかぶらされ、恐怖と恥辱と暗闇の中で一旦過去の「自己」が殺戮され、そして別の人格としての第二の人生が始まる・・・敗戦という出来事自体が、一つの「死」と「再生」の儀式であり、大江健三郎伊丹十三の世代は、誰もがこの儀式を経ているのだ、ということ。

その儀式の先にある「第二の生」の当事者として生きている我々・・・逆に、「第二の生」以外の生を知らない我々にとっての課題は、我々自身がどんな神話を、どんな精神世界を作り上げ、語ることができるか、という課題。村上春樹が、オウム事件阪神淡路大震災の経験を経て、「自分にどんな物語を語ることができるのか」と自問を重ねながら、日常に潜む圧倒的な不条理の恐怖と破壊力に対して、秩序を、美を語っていくこと自体を、「生きること」=「戦い」と捉えた過程を連想する。これは、一つの、「現代の神話」を作り上げよう、物語ろうとするアプローチ。

吉田秀和さんが、「たとえ世界が不条理であったとしても」人間はバッハを、モーツァルトを愛し、その世界と同等の秩序と美を語ることができるのだ、と自らを奮い立たせたのと同様に。前世代からの申し送り事項として、この「取り替え子」という本を受け止めながら、我々自身の課題として、自分たちの神話をどう作り上げていくか、これからも考えていきたいと思います。不条理の暴力や、グロテスクな物語に流されることなく、人に救済と希望を与えることができる美しい物語を、神話を作り上げていくことを、我々自身の子供たちに対する義務として・・・