最近読んだ本の感想文、今回は、久しぶりの池澤夏樹さんと、映画でちょっと話題になっていた乾緑郎さんのSFミステリー。例によってネタばれ記述多数なので、未読の方は要注意。
・「光の指で触れよ」
前作の「すばらしき新世界」に続く、池澤夏樹の「提言小説」とでも言うべきシリーズ。「すばらしき新世界」でも、かなり具体的に自然エネルギーへの傾斜を社会的提言として示していて、それまでの池澤さんの作品とかなり色合いが違うなーと思ったけど、「光の指で触れよ」ではそれをさらに踏み込んで、循環型農業にまで駒を進めていく。池澤夏樹さんはとにかく小説巧者なので、村上龍みたいに返り討ちを恐れず社会に殴り掛かることもなく、どこまでもスマートに、格調高く文学的にさりげなく、リベラルな主張をしてくる。文学的に心地よくなることと、提示された生き方をあくまで一つの提言として受け止めることを、しっかり自分の中で区分けしないと、変に洗脳されるかもしれないので、要注意。
そこの区分けがうまく行かないと、「おおかみこどもの雨と雪」みたいな夢物語になっちゃう気がして、ちょっと危ういなーと思いました。「すばらしき新世界」では物語の軸に、循環エネルギーへの提言と共に、ヒマラヤの精霊との交流という池澤さんっぽい軸があってバランスが取れていた。「光の指で触れよ」でも、チベット仏教思想や天使の奇跡が語られるんだけど、ちょっとバランスが悪い。もう少し、美緒さんの語る「雅歌」「哀歌」のパートが充実していれば、物語の多層性が増したかな、という気もして残念。個人的に美緒さんのキャラが好きだったのも一因かもしれないが。
なので、物語として楽しむよりも、循環型農業という生き方に共感するかどうか、が、読後感を左右してしまった感あり。そういうことを意識させてしまうだけ、社会的提言と文学的ドライブ感のバランスにおいて、前者の方に偏ってしまっている作品のように思いました。
では、お前は池澤さんが提示する循環型農業ということについて懐疑的なのか、と言えば、わりと懐疑的です。ベランダ菜園なんかやり始めて、自分の中にある百姓の血とか結構自覚するし、土をいじる快感とか、思うようにならない自然からなんとかおこぼれをもらう喜びとか、分からないでもない。でも、それで自給自足とか、貨幣経済からの脱却、なんてところまで行くと、かなり違う気はする。巨大経済システムに組み入れられてしまった農業のゆがみ、本来の姿への回帰、という問題認識はよく分かるんだけど、いったん拡大してしまった人間の欲とか、快適さへの馴れというのは、なかなか後退するものじゃない。「こんな生活だけど、これはこれで楽しい」と言えるポイントをどこに置くのか、どこでバランスを取るのか、というところなんだろうけど。国民全員が兼業農家やってるってのも面白い社会のような気もするけどね。
・「完全なる首長竜の日」
こういうの流行ってますねー。夢と現実、仮想と現実が相互浸食する話。流行しすぎていて若干食傷気味の所があるし、途中でオチが見えてくる展開も今一つ。読後感もあんまりよくないしねー。話題作だった割にはちょっとハズレ感が強い。むしろ映画を見てみたい気がする。黒沢清だし。最近彼の新作見てないしなー。どうせ破綻してるんだろうけど。というか、映画で話をまとめることを放棄している監督さんだしね。日本の映画監督に多いタイプ。
この小説の唯一の救いは、ディテールのリアルさかな、という気もする。離島の生活とか、造船所の作業員の仕事ぶり、砂浜を金属探知機を持って歩く時の金属探知機の重さとか、作家が自分の腕や肌で感じているようなリアリズムがあって、その筆力がすごいと思った。全体のストーリが弱い分、ディテールでカバーしている感じ。
マトリックス的世界観って、だんだん一つのジャンルみたいな感じがしてきましたね。最初に攻殻機動隊を見た時のひっくり返るような感覚とか、PKディックの先進性とか、マトリックスの衝撃を経験してしまうと、あれを超えるものってなかなか出てこないし、どれも二番煎じに見えてくる。もっと言ってしまうと、我々の日常生活において、仮想が現実を既にかなりの部分浸食してきていて、現実そのものが曖昧になってしまっている感覚があって、そこで仮想と現実のクロスオーバーをあえて描かれても、という感覚もある。もうすでに世界はマトリックス的に変貌してしまっていて、逆にリアルであること自体が新鮮だったりするのじゃないかな、と。
仮想や幻想がリアルを浸食している現代社会においては、現実世界のリアリティの中で生きていること自体が、「リア充」という言葉で希少価値を持って賞賛されたりする。現実と仮想の区別がつかない、という状態が、既に陳腐な日常の一光景になりつつある。御巣鷹山の悲劇と、ウクライナのマレーシア航空の悲劇が、人の死、という点で同じ重さを持った現実であるのに、後者の方がリアリズムが薄い(事故の原因すら物語として語られる)気がするのは私だけかな。そういう現代において、病んだ心がリアルの実感を求めると、佐世保の事件みたいなことが起こるのかもしれない。
現実から乖離して彷徨う心と現実を結びつける手段の一つとして、農業、というのは一つ有効なツールのような気もするんだけどね。土と向き合い、植物と向き合う現実感っていうのは、液晶画面経由の仮想現実よりもよっぽど新鮮な感動を与えてくれたりもするから。プロ農家の人たちには怒られてしまうと思うのだけど、みんなして兼業農家を目指すっていうのは、精神的にもバランスが取れていいのかも。と、無理やり二つの本の感想を、「農業」と「リアル」という言葉でつなげてみたりする。