本当のハロウィーン

先週の土曜日、「ノルマ」の舞台が終わって、さて、日曜日も頑張るぞ、と電車で家路につく。蒲田から品川駅で乗り換えようとしたら、山手線のホームが異様な空気に包まれている。何事か、と思ったら、山手線の電車の中ほど、2両ほどの車両に、異様な風体の外国人たちとコスプレ姉ちゃん兄ちゃんが大挙してすし詰めになり、網棚の上だの椅子の上だのに押し合いへし合い状態になって大騒ぎしている。ハロウィーンの仮装をした外国人たちと、それに便乗したコスプレの若者たち。酒に酔っ払っているのは明らかで、ギャーギャー騒ぎたてながら、車両をバンバン叩いている。電車の一部の電気が消えていて、どうやら蛍光灯をはずしたか割ったか。電車はそのまま品川駅に立ち往生し、駅員たちが走り回りながら、「警察を呼べ、警察を!」と殺気立っている。

10分か20分の立ち往生の末に、結局、その集団は全員、駆けつけた警察の指示で強制的に下車させられました。それでも品川駅のホームにあふれた連中は、大騒ぎをやめない。静かになった車両に、「一般の方はご乗車ください」と言われて乗り込むと、床の上にはわけのわからないゴミがちらばり、椅子の上には缶ビールの空き缶が散乱していた。汚れた椅子に座り、読みかけだった、池澤夏樹さんの「静かな大地」を開いて、その静謐な文章に触れた途端、なんだかものすごく悲しい気持ちになった。

ネットなどで見ると、どうやらこの「山手線内ハロウィーン・パーティ」は、東京在住の外国人を中心に、ネット上で企画されたものらしく、昨年も同じような騒ぎがあったそうです。大阪環状線でも同種の企画があったそうな。普通の乗客にビールをかけたり、IPodを壊された人がいた、という話だけど、それほど大々的な流血の騒動にならない分、おとなしいもんじゃないか、という人もいるでしょう。お祭りってのはそういうもので、岸和田のだんじり祭の方がよっぽど野蛮だろ、なんてことをいう人もいるかもしれない。秩序に守られた日常に非日常をぶち込むことで、日常自体の儀礼的な死と再生を生み出すのが「マツリ」というものである以上、そこに無秩序とカオスの状態が生まれるのはある意味不可避だろうと。

でも、日本の伝統的なお祭りというのは、非常に秩序だった段取りの中で進行するものです。岸和田のだんじり祭だって決して無秩序に進行するものじゃない。日常の秩序とは別の、神聖な秩序の中で、定められた祭礼があり、行列があり、歌舞の奉納があり、神輿の巡幸がある。日常の秩序(=「ノモス」)から、神によって守られたさらに上位の宇宙(=「コスモス」)の秩序の中に解放されて、身分の別なく、人々が一旦、全く平等な無名の存在になる時間、それが、「マツリ」という時間だったはず。「無名」だからこそ、そこには奔放な性の解放を含めた乱痴気騒ぎもあり得たのだけど、ただ意味のない無秩序や、神の秩序を乱すような暴行を戒める禁忌の存在は厳然と存在していたと思います。

そんな難しい話をしなくても、ハロウィーンというお祭り自体が、もともとはクリスマスなどと同様、ケルトの伝統的な収穫感謝祭から来た、極めて神聖なお祭りだったはず。収穫に感謝し、先祖に感謝し、森や山に満ちた精霊に対する畏怖と感謝を捧げるお祭り。それは決して無秩序なお祭りではなく、極めて秩序だった聖なるものへの敬虔な感謝からくるお祭りだったはずです。

山手線内ハロウィーン・パーティが見ていてひたすら醜悪なのは、そこには祈りもなければ畏怖もないから。日ごろ自分を抑圧している秩序に対する破壊本能の噴出以外、何も見えないから。見方を変えれば、日ごろ日本人の間に混じって、自らのアイデンティティの表出を抑制されている外国人が、思いっきり暴れまわって、自分を抑制している日本的秩序を破壊する快感に浸った、ということなのかもしれない。そこに混ざっているコスプレ兄ちゃん姉ちゃんにしても、日常秩序からの抑圧を感じている、という意味では同属なんでしょう。

池澤夏樹さんの「静かな大地」で描かれるアイヌの生活は、自然の中に満ち溢れている「カムイ」(=神)たちに対する感謝と畏怖に充ちています。そこには、決して破ってはならない禁忌や秩序が多数存在している。その秩序から抑圧感を感じる者もきっといたと思われる。でもそこには、人も動物も植物も、山も風も雨も、身の回りの万物を尊重し、全てに感謝する大らかで優しい精神が横溢している。破壊のための破壊を楽しむ刹那的で醜悪な無秩序とは対極にある。

「いいじゃねぇか、たまにはハメをはずして騒いだって」と若者や外国人は言うでしょう。実際、彼らの傍若無人な馬鹿騒ぎに対して、手を振って煽っている若い野次馬たちもいました。それがまた、日本人という人種が、どれほど醜悪な人種に成り果ててしまったのか、という絶望感を煽る。自然への感謝と神への畏怖を忘れてしまって久しい現代の日本人に、自分の人生や、自分自身が生きていることそれ自体への感謝と畏怖を感じろ、といっても無駄なことなんだろうか。

これから、私の娘が成長していく社会として、この日本という社会が本当に恵まれた社会と言えるんだろうか。物質的には豊かで、飢える心配のない社会。でもその一方で、秩序を破壊しようとする本能のどす黒いパッションが渦巻き、それをひたすら抑圧することしかできない、神を失った空虚な枠組みだけの社会。少なくとも娘には、自分の周りに充ちている精霊の声に耳を傾けることができる人間に育ってほしいと思う。守護天使のFちゃんを筆頭に、娘の周りでいつも娘を見守ってくれている、心優しい彼岸の魂たちへ、感謝と畏怖を捧げるお祭り。それこそがハロウィーンなんだよ、ということを、ちゃんと分かってくれる大人に育って欲しいと、本当に心からそう思います。